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雪と心臓

雪と心臓

雪と心臓

生馬直樹 著
2020年4月3日発売
ISBN:978-4-08-775450-6
定価:本体1500円+税

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火事の家から助け出された少女は、そのまま男に連れ去られた──新潮ミステリー大賞作家による、傑作青春ミステリ『雪と心臓』 4月3日(金)発売

担当編集のテマエミソ新刊案内

2016年、伊坂幸太郎氏、貴志祐介氏、道尾秀介氏が選考委員を務める新潮ミステリー大賞を受賞した期待の新人作家、生馬直樹さんの第三作『雪と心臓』が4月3日(金)に刊行となります。

クリスマスの夜に起きた悲劇。燃え盛る民家から少女を救い出した男は、なぜかそのまま少女を連れ去ってしまう。ヒーローから一転、犯罪者になった男の運命は。そこには、ある双子にまつわる物語があった──。


【本作へのコメント】

「この帆名(はんな)の物語をずっと読んでいたい」
──北上次郎(文芸評論家)(「集英社WEB文芸レンザブロー」より)

「過去イチで尾を引く後味。一気読みを推奨します」
──吉田大助(ライター)(「青春と読書」4月号より)


【内容紹介】

クリスマスの夜。百キロ以上のスピードで暴走する車を、二台のパトカーが猛追していた。
時は二時間ほど前に遡る。その男は、偶然、火事の現場に遭遇する。家の外で助けを求める母親。二階の窓からは、泣き叫ぶ娘の姿が見える。男はこの状況に運命を感じていた。
男が取った行動は、誰も予想しないものだった。燃え盛る家の中へと飛び込んでいったのだ。それから五分足らずで、男は家から出てきた。
胸には十歳の少女をしっかりと抱きかかえている。周囲から、歓喜の声が上がる。しかし、男が次にとった行動に周囲は啞然とした。
男は少女を母親に手渡さず、車に乗せてそのまま逃走したのだ。
一体、何が目的で。


ここでは、文芸評論家の北上次郎さん、ライターの吉田大助さんの書評を掲載いたします。
ぜひご一読いただけますと幸いです。

【書評】消えそうになって初めて、人は思い出の美しさに気づく 評者:杉江松恋(書評家、ライター)

 どうでもいいことがとても愛おしく感じられる。
 生馬直樹『雪と心臓』は手に取る人によって読み方が変わる小説だ。
 不可解な状況に牽引されて、ミステリーとしての謎解きを期待して読む人が多数派だろうか。里居勇帆の頼りなくて心配になってしまう生き方が気になって、思わず背中を叩きたくなってしまう読み手もいるかもしれない。本作は、あれこれと無駄な回り道をしながら歩いてきた若者の回顧譚であり、ミステリーでもある小説なのだ。結末にたどりつくまで全体像がわからないような書き方になっているので、ページをめくる手にも自然と勢いがつく。
 私が読み終えたときに感じたのは、本来なら読み終えたらすっと忘れてしまいそうな小さな挿話が、全体のあらすじよりも印象に残ったな、ということだった。悔恨の種とでもいうべき出来事が描かれているからだろう。記憶の中に引っ掛かって取れないとげなのだ。
 里居勇帆は周囲の顔色をつい窺ってしまうような少年なのだが、彼には二卵性双生児の姉がいる。その里居帆名は、思い立ったら他を顧みないところがあり、弟とは正反対の性格である。
 幼少期からの出来事が、飛び石のように間隔を空けながら語られていく。小学六年生のときのそれは、ある大人から貰ったおもちゃを、勇帆が父親から捨てるように言われる話だ。命令に逆らえず彼は川に投じに行く。一つだけ家に残っていたのだが、いつの間にか後を追ってきていた帆名が持ってきたのである。それをどうするか聞かれた勇帆が「捨てれば」と答えると、姉は平然と川に放り投げる。
 ただこれだけ。なのだけど、簡単には忘れられない。そういう情景の集合体なのだ。
 最初に不可解な状況があると書いた。実はプロローグはとんでもない。火事が起きて、少女が逃げ遅れる。一人の男がその家に飛び込んで子供を救い出すのだが、なんとそのまま車で逃走し、少女を連れ去ってしまうのである。いったい何の目的なのか。そして、本編である里居勇帆の物語とどういうつながりがあるのか。
 謎を引きずったまま話は進んでいく。疑問が解消されたとき、読者は胸に刺さったままの記憶のとげの存在に気づき、物語を振り返りたくなる衝動に駆られるだろう。

【書評】懐かしいだけじゃない!「あの頃」が蘇る長編 評者:藤田香織(書評家)

 読書で「扉を開く」といえば、未知なる世界へと続くイメージがある。ひとつの物語をきっかけに、今まで知らなかった物事に触れ自分の世界がぐっと広がる興奮は、本読みであれば誰しも経験があるだろう。
 けれど生馬直樹の小説はちょっと違う。開かれた扉をくぐると、読者は既知の世界へ踏み出すことになる。特異なのは、それが単に懐かしいあるあるエピソードに頰が緩むものではなく、忘れようとしてきた物事や感情までもが鮮やかに蘇ってくるという点にある。なのに、それが病みつきになる。圧倒的なリアリティに、惹き付けられてしまうのだ。
 二〇一六年、第三回新潮ミステリー大賞を受賞した「グッバイ・ボーイ」を改題し、翌年『夏をなくした少年たち』でデビューした作者の三冊目となる本書もまた、読者に容赦なく「あの頃」を突き付ける。
 幕開けとなるのは二〇一二年のクリスマス。不慮の火災に見舞われ燃えさかる家の二階に、十歳の少女が取り残されていた。半狂乱で助けを求める母親も、取り巻く周辺住民たちも為すすべがないなか、通りすがりの男が躊躇うことなく火中へと飛び込み、少女を抱きかかえ救出する。しかし、男は次の瞬間、少女を自分の車に押し込み逃走。パトカーに追われ猛スピードで車を走らせた挙句、大事故を起こす。一体男は何者なのか。どうしてこんな奇妙な行動をとったのか─。
 衝撃的なプロローグから一転、六章からなる本文では、主人公・里居勇帆の小学五年生から高校三年生までのエピソードが語られていく。有能組と残念組。友達関係における勝ち負けと平等。勉強、運動、美術や音楽の才能、人間として面白いかつまらないか、毎日様々な物事に優劣がつけられていて、自分は概ね下位をさまよっていると勇帆は思う。
 勇帆には双子の姉・帆名がいるのだが、ゲーム以外は取り柄のない弟と違って、彼女は勝気で好戦的で常識外れなところが多々ありながらも、全てにおいて優秀で、そんな姉弟の差異が物語の核となっている。双子とはいえ、勇帆と帆名では、見ているもの、見えているものがまるで違う。〈─自分に自信があって、だからだめな人が嫌いで、そして差別が得意なの、あたしたちのお父さん〉。理解できない帆名の数々の言動を、勇帆が納得するまでのタイムラグが絶妙に効いている。
 気恥ずかしくて痛痒くて、どうしようもなく息苦しくて、なのに上手く言葉にできなかったあの頃の気持ちが溢れ出す物語だ。前二作同様「後悔」という重いテーマも内包している。苦くて冷たい。けれど、そこに確かな温かさがあり、心が動き出すのだ。最後の一行を読み終えた瞬間、目を閉じて祈った。勇帆のことを、そして生馬直樹の活躍を。

(「小説すばる」5月号転載)

【書評】この帆名の物語をずっと読んでいたい。 評者:北上次郎(文芸評論家)

 帆名がいい!
 小学四年生のとき、六年生の男子リーダーが後輩を苛めると、「調子こくなよ、くそったれ」と憤然と掴みかかってやっつけてしまうから痛快だ。勉強も運動も群を抜いていて、さらに遊びの面でも鮮やかだから、これでは勇帆の立場がない。勇帆と帆名は双子なのだが、自分のすべての能力はこいつに奪われている、と勇帆は感じている。なんでこんなやつと一緒に生まれたのか。
 中学生になったとき、勇帆の同級生が帆名を評してこう言った。「あんなに乱暴で、勝手で、自我まる出しで生きているのに、不思議とまったく孤立していないんだ」
 そういう性格は高校生になってもかわらず、単独行動を好んでいて、生物部に入って分厚い蛇の図鑑を読む生活を送っているが、それでも勇帆が不良のリーダーに殴られると、金属バットを持って訪ねていく。彼女が血だらけになって帰宅するまで勇帆は知らなかったのだが、「かわりにあいつのバイク、ぶっ壊してやったから、こっちの勝ちでいいんじゃないの?」とうそぶくのである。
 こういう女性は、どんな大人になるんだろう。どんな仕事をするんだろう、と想像はどんどん膨らんでいく。さらに、恋する季節もいつかは訪れるだろうから、どんな人と愛をはぐくむのか、そのディテールを知りたい--おお、この帆名の物語をずっと読んでいたい。と思いながらこの小説を読んでいた、と書くにとどめておく。どうなるかは、ここに書かない。
 プロローグとエピローグにちょっとした仕掛けのある小説であること。大半が小中高の年代を描いているので少年少女小説の趣があること。家族小説であり、双子小説でもあるが、決定的なのは魅力的なヒロインを描いた小説であることだ。昨今の長編としては短い部類に入るけれど、しかし大きく見える一作だ。それがいちばんの実感かもしれない。

【書評】解かれた後も謎が尾を引く、過去イチの後味 評者:吉田大助(ライター)

 取り返しのつかないあやまちや後悔を、どう受け止め生きていくのか。生馬直樹は第三回新潮ミステリー大賞受賞のデビュー作『夏をなくした少年たち』、第二作『偽りのラストパス』で、そのテーマを描き出してきた。第三作『雪と心臓』でも同様だ。ただし、後味がまるで違う。
 プロローグで活写されるのは、ホワイトクリスマスの夜に発生した事件の顛末だ。時は二〇一二年、舞台は新潟。郊外の一軒家で火災が起き、二階には逃げ遅れた一〇歳の少女がいた。その家へ飛び込んでいったのは、たまたま近くに居合わせた二〇代の青年だ。彼は少女を救出するが、そのまま自分の車に乗せて連れ去ってしまう。英雄はなぜ犯罪者となったのか?
 続く本編では、時間が一九九七年に巻き戻る。プロローグなど存在しなかったかのような空気で、「ぼく」が小学五年生だった頃に始まり、中学生、高校生と青春期を歩む姿が描かれていく。全六章の冒頭には「日常の謎」が掲げられているものの、ミステリー要素はフックにすぎない。デビュー作以来、少年の震える心を捉える力は確かなものがあったが、今回は特に「少年小説家」としての筆が乗りに乗っている。特に中学生時代が、やばいくらい生々しい。そして、過去イチで楽しい。「ぼく」よりもすべての点において優れている双子の姉・帆名への反発心がしだいに融和し、互いを人生の同志として認識し始めるからだ。だが、その先で、決定的な事件が起きる。
 これまでの二作において、主人公にとって過去とは、現在の自分を縛り付けるものにすぎなかった。本作では過去が、主人公を助けてくれる。いや、もしかしたら〝あの人〟が助けてくれた、と感じる読者もいるかもしれない。そこがこの小説の面白さなのだが、あの人のあの発言は、主人公の記憶の中で創造されたものではないのか? ……いささか勇み足が過ぎたようだ。とにかく、過去イチで尾を引く後味であることは間違いない。一気読みを推奨します。

「青春と読書」2020年4月号転載

『雪と心臓』試し読み

プロローグ

 火の粉は雪とともに降ってきた。
 数分前の光景だ。あのとき、彼はほんの一瞬立ちどまり、その鮮やかな色合いに見惚れた。まだ肩や背中にその火の熱が残っているような気がして、彼はつい興奮気味にアクセルを強く踏んだ。
 クリスマスの夜、四車線のバイパスを百キロ以上のスピードで暴走する車を、二台のパトカーが猛追していた─。

 二時間ほど前、その男は市内の街路をあてもなく、ぼんやりと歩いていた。年に一度の聖夜のお祭りに、町はにぎやかで華やいだ雰囲気に包まれていた。CDショップの店頭からは今年のヒット曲がひっきりなしに流れてくる。ほとんどが若いアイドルのもので、男が口ずさめる歌はひとつもない。駅前の街頭テレビには一年を振り返るように、今年を彩った出来事が映し出されている。東京スカイツリーの開業、イチローの電撃移籍、ロンドン五輪、iPS細胞作製によりノーベル賞受賞─。比較的明るい話題ばかりで、その裏で起きた数々の事故や事件や災害などは、今夜は脇に置いて、というように作為的にはぶかれていた。長年田舎暮らしの男にとっては、時々それらのニュースがファンタジーのように思えたりもする。

 薄暗い空から、はらはらと雪が落ちてきた。男は歩きながら、頭の上に乗ったかすかな雪を手で払った。もちろん初雪ではない。一ヵ月ほど前から少し降ってはすぐにとける、をくりかえしていた雪が、また降ってきたようだ。
 ロマンチックな雪景色に、いきかう若者たちはささやかな喜びの声をあげる。その中に加われない寂しさが、ふいに男の胸を突いた。言いようのない孤独感に襲われる。時が経つのは早く、もう二十代後半……。クリスマスの夜、いい大人が目的もなく歩いている。男はなんだか恥ずかしくなり、そそくさと近くに停めてある車に向かって踵を返した。

 男がふたたび聖夜のドライブを開始したころ、市内の外れのほうにある一軒家の中では、大惨事の幕が切って落とされていた。
 一人の主婦が、石油ファンヒーターの運転ボタンを押した。今夜は例年どおり家族でパーティーをして過ごす予定だった。同居している舅や姑は、町内会が企画した年末旅行に参加しており、今日はいない。先程まで準備を手伝っていた十歳の娘は、少し疲れてしまったのか、いまは二階の部屋で眠っている。夫が帰ってきたら起こそう。カレー風味の唐揚、ママ特製のピザ、苺タルトのケーキ、そしてぬいぐるみロボのプレゼント。今夜、娘の興奮が鎮まることはないだろう。いまのうちにゆっくり休んでおくといい、と彼女は考えた。
 ふいに、ボンッ、という音をあげ、ファンヒーターが大きく発火した。それはバチバチと火花を散らし、あっというまにクリスマスの装飾とカーペットに引火し、リビングの中に異様な火柱をつくりあげた。後になってわかったことだが、原因は、このファンヒーターの灯油にガソリンが混じっていたためだった。これは懇意にしている業者のミスだったが、それを知る由もない主婦は自身の不手際が起こした事態と思い、激しく動揺した。彼女はあわててボールタイプの投てき消火用具を探した。しかし、あると思っていた場所にそれは見つからず、そのうちに火は勢いを増し、黒い煙を吐き出しはじめた。彼女はパニックにおちいった。何か消火に使えるものはないかと手当たり次第に近くの棚や戸を開けた。不燃物を投げつければ消えるかもしれないと短絡的に考えることしかできず、手に取った食器や鍋などを即座に投げ込んだ。しかし火は一向に消える気配を見せず、むしろその範囲をどんどん広げていく。彼女は強烈な焦燥感に支配された。

 小麦粉が消火に使える、という浅い知識が頭を過った主婦は、それを雑につかみとると急いで放った。しかし袋キャップが中空で外れ、粉は霧のように室内に舞い散ってしまった。次の瞬間、起こったのは小さな粉塵爆発だった。主婦の視界は刹那、バンと白く弾けた。思わぬ威力。爆風によってリビングの大窓が割れ、彼女はその穴からあわてて外へ飛び出して転がった。簡素な庭でしばし放心していた主婦だが、すぐに正気を取り戻し、よろよろと起きあがると力のかぎり叫んだ。
「恵!」彼女は頭を抱えた。「ああ、どうしよ。恵……恵!」
 リビングの奥はオレンジ色に燃え、大量の煙を生み出しては外へ向かって放っている。二階で眠ったままの娘を助けるため、ふたたび中へ飛び込もうとしている主婦を、その煙は巨大な張り手で拒みつづけていた。彼女の体は切り傷、打撲、かすかな火傷などでぼろぼろだったが、痛みはほとんど感じていなかった。頭にあるのは十歳の娘のことだけ。
「誰か……誰か助けてください!」
 と、主婦は叫びながら、家の前の通路に出た。異常を察した近所の住民がすぐに駆けつけ、即座に救急車と消防車を呼んだ。しかし、それらが到着するまで一体何分かかるのだろう。彼女は呆然と立ち尽くし、不慮の火災に見舞われたわが家を眺めた。
 ふいに二階の窓が開いた。娘が顔を出したのだ。
「お母さん!」娘は泣きながら叫んだ。「お母さん!」
「ああ恵……」主婦は口許を手で覆った。「すぐに助けるからね、大丈夫だからね!」
 娘は、いま自分の置かれている状況を一から十まですべて理解しているようだった。熱い、息苦しい、助けて、死にたくない。実際に聞こえはしないが、そんな言葉が娘の歪んだ口から発せられているように思え、主婦はもう立っていられなかった。

 そのとき、一台の軽自動車がこの家の前に停まった。車から降りてきたのは、二十代後半の男性だった。彼は先程まで、華やいだ町をあてもなく歩いていた男だ。あれから数十分後─偶然、この場面に遭遇したのだ。しかし男はこの展開に、なかば運命的なものを感じていた。意気揚々と主婦や野次馬の住民に近寄ると、彼は一瞬目を合わせた程度で、すぐさま燃える家の中へと飛び込んでいった。
「あ、あの!」
 戸惑う主婦の声が男の背中を追いかけたが、彼の姿はもう黒い煙の中に隠れていた。
 それから五分足らずで、男は家から出てきた。胸に十歳の少女をしっかりと抱きかかえている。手や頬は黒く汚れ、かすかな火の粉で肩を焦がしているが、男は植物のように無感情な様子で、少女だけを見つめていた。少女は意識はあるが、恐怖からか身が固まり、喉を震わせるばかりで声が出ないようだった。
 悲鳴とも歓喜ともつかない声が周囲からこぼれる。
 わが子を受け取ろうと、主婦がよろめきながらも駆け寄ってくる。囲む野次馬たちの中にも安堵の空気が流れる。

 しかし男が次にとった行動に、周囲は唖然とした。
 彼は少女を母親に手渡さず、ふらりとかわすと、そのまま少女を抱きかかえつつ、停車してある自分の車のほうへと走り出した。あまりにも奇妙な光景。当惑や混乱に至るまでの、しばしの硬直。母親を含め、まわりの人々は男の行動をなかば呆然と見送ることしかできなかった。 男は車のドアを開けると、少女を助手席のほうへ押し込んだ。そして自身も素早く運転席に座るとドアを閉め、エンジンをかけると勢いよく走り出した。
 目の前で娘を連れ去られた母親は、靴下のまま、即座に男の車を走って追いかけた。途中で転び、誰かに抱き起こされるまで、彼女の意識はいつまでも娘を追いかけつづけていた。
 クリスマスの夜、火事に見舞われた民家から幼い女の子を救い出した英雄は、次の瞬間一転して、女の子を連れ去った犯罪者へと変わったのだ。
 男の車はバイパスに入り、新発田方面へと向かって走る。いき先は決まっていた。
 少女は助手席に座りながら、頭を押さえてすすり泣いている。煙を吸ってしまったせいか、げほげほと咳もまじらせている。男もいくらか煙を吸い込み、いまの気分は最悪だった。こめかみの奥がずきずきと痛む。視界も霞む。それに呼応してか、強烈な後悔と罪悪感に襲われた。これは少女を連れ去ったことに対するものではなくて、もっと昔の……。
 しかし浮かびあがってくる記憶はすべて断片的で、曖昧で、なぜか言葉にできないものばかりだった。

 パトカーのサイレンの音が四方から響き渡ってくる。これは間違いなく、男を追いかけている音だ。どんどん大きくなる。まもなくして、派手に光るパトカーの赤色灯がバックミラーに映った。男はごくりと喉を鳴らしてから、アクセルをおもいきり踏み込んだ。
 前方の車を避けるようにジグザグに走り抜ける。少女の顔は青ざめていて、目も開けられないほど、現状に恐怖している。男は心底申し訳なく思うが、止まることはできない。後方を走る二台のパトカーはすでに男の車を視界にとらえていて、拡声器で何やら怒鳴っている。
 男の車は猛スピードでバイパスをおりた。最初の信号無視。そして二度目の信号無視の瞬間、左からきた大型トラックにぶつかりそうになり、あわててハンドルを切った。耳をつんざくようなクラクションの音。タイヤを焦がす地面。男の車はおかしな方向に傾き、スピンしながら照明灯に体当たりした。そのままがつんと歩道の縁石に乗り上げる。異常な光景。勢いあまった車はぐるんと側転するように、歩道脇のゆるい傾斜の下へと転がっていった。
 歩道脇は工業地帯だ。運送会社の事務所と倉庫に挟まれた小道で、男の車はひっくり返っていた。伸びた蛙のようだ。砕けたガラスがまばらに散らばった。
 即座にパトカーが数台、その周辺を取り囲み、何人かの警察官が外へと足を踏み出す。ひっくり返った車の下から、少量だが血が流れてくる。警察官の一人はそれを見て、思わず顔をしかめた。これは犯人の血か、それとも連れ去られた少女の血か……。
 そのとき、割れた窓ガラスの中から、男がぬっと顔を出した。まさに虫の息。なんとか這い出てきた男の背中には、大きなガラスの破片がグサリと突き刺さっていた。男はみずからが流した血だまりの中に浸かった。
 こりゃ、だめかもな─。
 見下ろす警察官の一人は、そう思った。そして、思わず問いかけた。
「おい待て。まだ死ぬな。なぜこんなことをした?」
「やめろ。まずは救助が先だ」
 ほかの警察官がすぐに戒める。
 そうだ、最優先すべきは少女の命。しかしこの有様だと……。
 警察官たちの胸の中で、絶望が小さな音を立てる。
「……こ」そのとき、血だまりに沈む男がかすかに口を開いた。

「今度は助けたかったんだ」

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著者プロフィール

生馬直樹(いくま・なおき)
1983年12月、新潟県生まれ。2016年『夏をなくした少年たち』で第3回新潮ミステリー大賞を受賞。そのほかの著書に『偽りのラストパス』。

雪と心臓

雪と心臓
生馬直樹 著
2020年4月3日発売
ISBN:978-4-08-775450-6
定価:本体1500円+税

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