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刊行記念特別インタビュー

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リーチ先生

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『楽園のカンヴァス』『暗幕のゲルニカ』で注目を集める原田マハさん待望の最新アート小説は、日本を愛し、日本に愛された世界的陶芸家バーナード・リーチの生涯を描く感動長編! 10月26日発売『リーチ先生』

定価:1,800円(本体)+税 10月26日発売

リーチの影響は
ある種のDNAみたいに、
日本人の中に残っている


イギリス人陶芸家バーナード・リーチは幼少期を日本で過ごし、一九〇九年、二十二歳のとき、再来日を果たします。当時の日本は、柳(やなぎ)宗(むね)悦(よし)をはじめとする白樺派が「民芸運動」を推し進めていた時代。彼らとの交流を通じて、リーチは新しい陶芸の世界を切り拓いていきます。
原田マハさんの新刊は、日本を愛し日本に愛されたこのリーチの半生を、二代にわたってリーチの弟子となった名もなき親子の視点から描く長編小説です。西洋と東洋の芸術を結びつけたいと願い、そのために邁進したリーチと、リーチを支え、リーチを慕い続けた弟子たち。国境も身分も、時代も越えて受け継がれていく芸術の尊さと、彼らの生き方に心打たれる本作の刊行に当たり、原田さんにお話を伺いました。
聞き手・構成=山本圭子/撮影=露木聡子


「リーチ先生が残して下さったものがここにある」

――原田さんはアンリ・ルソーやピカソをはじめ、さまざまなアーティストを題材に小説を書かれてきましたが、今回、陶芸家のバーナード・リーチと彼に影響を受けた日本人たちを取り上げたのは、どういうお気持ちからだったのでしょうか。

 もともと民芸品や日本の手仕事が好きで、キュレーター時代から興味を持っていたんです。私の二十代、バブルの頃までは欧米の文化に憧れる風潮がありましたが、私自身は美術史の勉強を始めたことをきっかけに、アートや工芸における日本人のアイデンティティが気になり始めていました。フリーランスのキュレーターになった四十代からは、全国を旅するようになりましたが、目的があったほうが楽しいので、旅先で積極的に窯元や手仕事の工房を訪ねたんです。私はジャグ(水差し)が好きでコレクションをしていますが、魅力的なジャグを作っている窯元で話を訊くと、かつてバーナード・リーチが訪れたところばかり。偶然なんですけど。

――強い縁を感じますね。

 自分目線で恐縮ですが、「趣味が合う」と思いました(笑)。リーチと会ったことがある方もいれば、「祖父から話を聞いた」という若い方もいらっしゃいましたが、皆さんバーナード・リーチとは言わずに「リーチ先生」とおっしゃるんです。「リーチ先生が残して下さったものがここにある」と。ほほえましいと思いましたし、直接会ったことのない方までがリーチが訪れたことを誇りにし、敬意をもって旅人の私に話して下さることに驚きました。リーチの影響はある種のDNAみたいに日本人の中に残って、それに呼応したから私もひかれたのでは、という気もしました。そんな経緯から「いつかリーチを小説にしたい」と考えるようになったんです。

――リーチの仕事や人となりはもちろんですが、柳宗悦ら大正時代に活躍した白樺派の人々との交流や彼らの功績に触れられているのも、この小説の特徴ですね。

 そこは強調したかったところです。話は少し飛びますが、私も含めて日本人は、モネをはじめとする印象派やゴッホのような後期印象派がとても好き。「なぜ?」という疑問がずっとありました。日本だけでなく世界的にも人気ですが、その理由の一つは、今私たちが享受しているさまざまなことが彼らの時代――十九世紀後半に始まっている場合が多いからだと思います。
 例えば、海水浴やピクニックなどのレジャーが広がった背景には、鉄道網が発達して、都会に住む一般市民が遠出できるようになったことがあります。また、彼らは日夜カフェなどに集い、成熟した都市文化の担い手となりました。印象派はそういう人々を現場で描く主義だったわけです。だからそれまでの画家たちのアトリエに引きこもって描いた絵とは違って、生きているという感覚が伝わってくる作品、私たちが容易にその世界を想像できる絵になったんです。

――文明の発達が画家と絵を変えたんですね。

 そうですね。その印象派を、日本に初めて紹介したのが白樺派の人たちでした。複製が多かったと思いますが、ほぼリアルタイムだったのだから驚きです。この小説にも書きましたが、彼らは印象派を紹介する展覧会を開いているんです。ですから、白樺派がいなければ、もしかしたら戦後まで印象派の絵は入ってこなかったかもしれない。日本がヨーロッパから遠く離れた極東の地であることを考えると、画期的なことだったと思います。白樺派の人たちが土台を作ってくれたから、今私たちは印象派の絵を見て自然に受け止めるんです。

――リーチはそんな彼らと交流を重ねて、欧米の芸術を日本に伝えると同時に、おおらかですこやかな日本の芸術への興味を深めていきます。文字通り、東西の文化をつなぐ役割を果たしていますね。

 インターネットが普及して、世界中の誰とでも簡単にコミュニケーションがとれる時代になりましたが、当時は文化をつなげたいと思ったら、苦労して自分が動かなければならなかった。リーチのようにイギリスから日本に来たり、詩人で彫刻家の高村光太郎のように日本から欧米に渡ったり。動く人には、やはり並々ならぬ決意や努力があったと思います。東西を結びつけたいと情熱を燃やしたリーチという人がいて、彼に呼応した白樺派の人たちとの間にサロンができて、一緒に働いたという事実――それが日本の文化に残した足跡は本当に大きかったと思います。

――リーチと白樺派の人たちは本当によく会って長い時間をかけて議論をし、それが次の芸術活動につながっていきます。直接会うことでもたらされるものも大きかったのでしょうね。

 最近はありとあらゆるデバイスが出てきて、コミュニケーション手段は発達し尽くした感がありますが、やはり私は読者の方から手紙をいただくと感激するんです。書いて下さったという“わざわざ感”がそうさせるのでしょうね。わざわざ手紙を出して会う、わざわざ会って話をする、そういう時間と労力が必要だった時代を経て、便利な今がある。想像しにくいかもしれませんが、そうした時代にもう一度立ち返ってみてもいいのではないでしょうか。


戦争で混乱した人々の心を民芸で復興させよう

――リーチのそばにつねにいるのが助手の亀(かめ)乃(の)介(すけ)です。彼の視点で物語が描かれているので、実在の人物なのかとても気になりました。

 亀乃介は架空の人物です。彼はリーチのやることや考えに触れると、いつも驚くんです。「リーチ先生はなんてすごいことをやろうとしているんだ」と。のちにリーチが日本で得た知識と技術を持ち帰ろうとしたとき、一緒にイギリスに渡りますが、そこでも「陶芸にはこういう表現方法もあったんだ」と驚きます。反応がいちいちおおげさなんですが(笑)、それは彼を通して私の驚きを表したかったし、読者の驚きにもつながると思ったからです。

――白樺派の中でも柳宗悦が中心になって推進した「民芸運動」は、日用品の中に「用の美」を見出し、活用する運動です。“普段使い”を重視する最近のファッションなどの傾向と、「民芸運動」の考え方はつながるところがあるような気がします。

 私の実家にはお客様用の食器がありますが、実際はそれを使うような来客はめったにない。もったいないなと思います。それで私は、多少値段が張っても気に入った器なら、日常的に使うために買うようにしています。たくさんは要らないので、良いものを少し。値段が高いものには特別に手が込んでいるとか、アーティストの思いがこもっているとか、希少性の高い素材が使われているとか、何かしら理由があるはずなんです。その何かに自分が価値を見出したら、思い切って買う。一生もののつもりで大切に使ってもらえれば、作り手もうれしいのではないでしょうか。

――柳宗悦という人物の器の大きさや才能についても、とても興味深く読めました。

 リーチもそうですが、柳宗悦はずば抜けた美的センスの持ち主でした。本物をたくさん見ている目利きなんです。その目利きの柳が「好い」と言うものを「好い」と感じる人、つまりフォロワーがたくさん生まれて新しい価値観が生み出された。それが「民芸運動」だったと思います。人々を目覚めさせたという意味で、柳たちがやったことは大きかったし、今の若い人たちが彼らの美意識に気づき始めているのはすごくいいことだと思います。

――柳宗悦の精神は後に人間国宝になる陶芸家の濱(はま)田(だ)庄(しよう)司(じ)や河(かわ)井(い)寛(かん)次(じ)郎(ろう)に伝わっていきますが、戦後改めて日本を訪れたリーチは濱田や河井と日本各地の窯元を回ります。そこでの彼らは教えるというより、好いものに感じ入るという姿勢。その素直さ、ひたむきさに感動しました。

 リーチは最初単身で日本にやってきて、その後婚約者を呼び寄せて十一年間暮らしますが、戦争が始まったこともあってイギリスに帰ります。そこでリーチ・ポタリーという、芸術家と職人が一緒になって陶芸にいそしむ場を作るのですが、日本で得た知識や技術をイギリスに根づかせたことは本当にすばらしいし、大変な苦労があったと思う。ここまででも彼が乗り越えてきた壁の多さ、大きさを感じますが、さらに戦後改めて日本にやってきて、濱田たちと窯元を回った。そこには、戦争で混乱した人々の心を民芸で復興させようという気持ちもあったと思います。書いていて心を打たれました。
 そのとき彼らが訪れた窯元のいくつかを、私も旅で訪れました。当時のリーチたちの窯元行きにはちゃんとスポンサーがついていて、新聞社などがお金を出していた。もちろん記事を作るという目的もあったでしょうが、面白いと判断したことをどんどんやらせるくらい太っ腹なところがあったんですね。いいパトロンがいた時代という意味では、リーチたちはラッキーだったとも思います。


美化しすぎないで十分に美しい話になるように

――リーチと彼を巡るたくさんの人々を描き、時間的にも長きにわたる物語だけに、準備のご苦労も多かったのではないでしょうか。

 いやいやもう大変で(笑)。本の最後に参考資料を添付していますが、美術史の世界で文献にあたるというのは非常に重要なことなんです。ただ私の場合はフィクションなので、文献から史実を突き止めるというより、人物造形や行動の裏をとるのが目的。でも、もともと美術の勉強や仕事をしていたので、すごく楽しいですよ。「こういうことだったのか!」とハッとすることも多いんです。

――取材にも行かれましたか。

 この作品に限らず私は、作家として取材しない限り書かない、書けないと考えています。リーチ・ポタリーがあるイギリスのセント・アイヴスには、もちろん行きました。リーチが陶芸用の土を求めてさまよったあたりを回ったり、お孫さんのフィリップ・リーチさんにお会いしたり。フィリップさんに「私は日本の小説家で、あなたのおじいさんのことを書かせていただきたい」と話したら、「ありがとうございます。どんなことでも書いて大丈夫です。お手伝いできることがあったら何でもおっしゃって下さい」と言っていただいたのはものすごく励みになりました。益(まし)子(こ)の濱田窯にも行って、濱田庄司のお孫さんで陶芸家の濱田友(とも)緒(お)さんの承諾もいただきました。濱田窯では登り窯の火入れを見せていただいて、一晩中火のそばにいましたが、こういった取材や経験は本当に大きかったと思います。

――美術や芸術家をフィクションとしてお書きになる上で気をつけていらっしゃることはありますか。

 私が史実をベースにして書くのは、そのアーティストをリスペクトしているからなんです。ですから、登場するアーティストを絶対におとしめないというのが、自分の中の決め事です。ある種の美化はどうしても出てきますが、美化しすぎないで十分に美しい話になるようにというのは、いつも気にしていることです。美術をテーマにした小説を書き始めた頃は、史実にどの程度架空の人物を取り入れていいものかと悩みましたが、最近はみなさん許して下さるというのがわかってきて(笑)。自分ではSF(サイエンス・フィクション)ならぬAF(アート・フィクション)だと言っていますが、非常に楽しく書いています。

――リーチたちが「好い」と思ったものを手に取ってみたいと感じ、器を巡る旅をしたくなる小説でもありました。

 リーチが実際に作った器は本当にすばらしくて、私も欲しいんですけど、なかなか手に入らないんです。ただ、岡山県の大原美術館やプロローグの舞台になった大分県の小(お)鹿(ん)田(た)の資料館に行けば、本物を見ることができます。リーチが回った窯元には、作品が展示してあることもあります。リーチ自身が作ったものでなくても、リーチが訪れた窯元には彼のDNAがちゃんと伝わっているので、そこで気に入ったものを買って使うのもいいと思います。若い人たちが作ったものにも、リーチの息吹を感じられるので。私自身そういうものを手に入れて、日々楽しく使っています。器は使う人のためのアートなので、それを探す旅に出て、現地の食を楽しむ。帰ってきたら、買ってきた器を使う。そういったことがうまくつながっていけば、地方の活性化にも結びつくのではないでしょうか。この本を楽しんでいただいて、さらに「民芸ツーリズム」が生まれたら、とてもうれしいですね。

(「青春と読書」2016年11月号より転載)


原田マハさん原田マハ(はらだ・まは)
一九六二年東京都生まれ。関西学院大学文学部日本文学科および早稲田大学第二文学部美術史科卒業。馬里邑美術館、伊藤忠商事を経て、森ビル森美術館設立準備室に勤める。森ビル在籍時、ニューヨーク近代美術館に派遣され同館にて勤務。その後独立し、フリーのキュレーター、カルチャーライターへ転身。二〇〇五年、「カフーを待ちわびて」で第一回日本ラブストーリー大賞を受賞し作家デビュー。二〇一二年、アンリ・ルソーの代表作「夢」にまつわるアートミステリー『楽園のカンヴァス』で第二十五回山本周五郎賞を受賞。モネ、マティス、ドガ、セザンヌら美の巨匠たちの生涯を描いた『ジヴェルニーの食卓』、ピカソの名画を巡る国際謀略アートサスペンス『暗幕のゲルニカ』など著書多数。


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