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担当編集のテマエミソ新刊案内

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いつかソウル・トレインに乗る日まで

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『いつかソウル・トレインに乗る日まで』高橋源一郎

定価:1,800円(本体)+税 11月5日発売

作者の高橋源一郎さんとの打ち合わせは、
たいていスターバックス・コーヒー鎌倉御成町店でおこないました。
会社の人には、「いつも鎌倉までたいへんね」なんて言われましたが、
横須賀線だったか東海道線だったかに乗って小一時間、
車窓からの眺めもだんだんのんびりしてきて、
ちょっとした遠足気分を満喫してから鎌倉駅の改札をくぐると、
さすが鎌倉ですね、もう陽の光が東京とは違う。
このスターバックス・コーヒー鎌倉御成町店は、スタバマニアには少しく有名らしく、
さる高名な漫画家の邸宅跡地を改装したお店で、とても雰囲気が良い。
大きなガラス扉のむこうにはプールのあるお庭もあって、
花の咲く季節なら、水面に踊る桜の花びらを眺めることができるそうです。
それゆえ、というか、そのかわりというか、
いつもけっこうお客さんで賑わっているんですよね。
カップル、老夫婦、お子様連れのママ友だち、
それから向かいが鎌倉市役所なので、そこの関係者の方々や、
もちろんご近所のお一人さまなどなど……

……いやいや、新刊の『いつかソウル・トレインに乗る日まで』についてですが、
オビにもあるとおり、高橋さん初の恋愛小説ということで、
「恋愛小説といったって、高橋源一郎の小説だからさぁ、きっとなんか一読しただけじゃ、
誰と誰が恋愛しているのか分からないような小説なんじゃない」とか、
そういうご心配はまったく杞憂のものでして、
「おれ、号泣しちゃったよ」という感激が、
作者本人へ早くも伝えられているとのことです。

本の写真をご覧いただければわかるとおり、
なんだかこれまでの高橋さんの小説とはガラッと変わって、
なんだかとても軽やかな装いで、この長野陽一さんによる撮り下ろしの写真、
デザイナーの有山達也さんの指揮のもと、都内某公園で撮ったのですが、
帰り道にモデル(本業はモデルじゃないのですが)の阿部好世さんと長野さんを
タクシーでお送りし、広尾で阿部さんを降ろすと阿部さんはタクシーの座席に
ケータイを忘れていて、慌てて呼び止め間一髪だったので、
ああよかったと思ったら、長野さんを降ろしたあと、
今度は長野さんがケータイを座席に忘れてしまって、
しかし、もはや長野さんは姿も見えず、慌てて電話をすると、
目の前のケータイが鳴り出し、しかも自宅の番号は存じ上げないという始末で、
この2件の「ケータイ忘れ」は何の符牒だろうと、
なんだかんだで無事長野さんにケータイをお届けできたあとも、
しばらくのあいだ考えていたのでした。
(編集S)

 ぼんやりとした闇の中から、なにかが、ゆっくりと近づいてくるような気がした。そして、そのなにものかに、ケンジは頭を垂れるしかなかった。だから、ケンジは、さらに深く頭を垂れた。すぐ近くに、深い悔悟の念があった。忌まわしい思い出もあった。滾(たぎ)るような感情も微かに見えた。だが、そうではない。重要なのは、自分の中に埋めこまれた感情なのではない。ケンジには、そう思えた。身構え、そして準備しなければならないのではないか。
 巨大ななにかが近づいて来る。そして、それを、自分はずっと待っていたのだ。ケンジは、そんなことをぼんやり考えた。
 語らねばならないことがあった。語ることが無理なら、言葉にすることが不可能なら、呻きでも、呟きでも、かまわない。だとするなら、それこそが、「祈り」ではないのか。
 ケンジには、キム・ヨンシムがいった「姿勢」の意味が、いまならわかるような気がした。
 頭を垂れるのだ。それに、そのものに向かって。
 ケンジは、深く、深く、頭を垂れた。そのまま、どこかへ、頭の先から落下していきそうだった。ケンジは恐怖を感じた。だが、それ以外のやり方を、ケンジは、思いつくことができなかった。
 その時だった。
 ケンジが入ってきた扉が開き、外から強い光が、堂内に入りこんだ。
 少しの間、沈黙があった。それから、誰かが、堂内に入り、歩きはじめるのがわかった。ケンジは、それでも、頭を垂れ続けていた。誰か、とケンジが呟いた。おれを、ここから出してくれ。

「ヤマザキさんですか?」
 声が、ケンジを、こちらの世界に、現代のソウルに引き戻した。ケンジは、声のする方に振り向いた。
 目の前に、若い女がいた。
(本文より)


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