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ドライバー 中島さなえ

 

vol.2 stilt

 港からバスに長いあいだ揺られて日が傾きかけた頃、ようやくラタトゥの町が見えてきた。だだっぴろい牧場や、川の水をくみ上げて勢いよく回っている大きな水車の脇を抜けると、露店やカフェが立ち並んだメインストリートが姿を現し、たくさんの買い物客で賑わっている。前に住んでいた港町とは比べものにならないほど大きな町だったし、人々にも活気があるように見える。ぼくのからだに触れていたティランカの手にグッと力が入った。知らない町にやられて、ぼくと同様ティランカも不安なのだとわかった。
 バスの中は声も上げられないほどぎゅうぎゅう詰めになっている。じっとしているのは辛かったけれど、船着き場でティランカと出会い、そこから勝手にくっついてきた身分としては文句も言えない。それに、少しでも目立とうものなら、ティランカを見張っている仏頂面の男にたちまち引き離されてしまう。
「新天地だな」
 男がティランカの耳元に言葉をかけた。「身寄りがなくなったのは同情するが、ラタトゥはいい町だ。みなが住みたいと願っている」
 ティランカは黙ったまま男から顔を背け、ぼくの手を握った。ティランカのやわらかい手を握り返して、男をにらみつけた。やつは気にとめる様子もなく、浅黒い顔に薄笑いを浮かべて窓から外をのぞいた。
 やがてバスは町の大広場に到着して、腹の中にためこんだ人の塊(ルビ:かたまり)を一気に外へと吐き出していく。ステップから飛び降りてよろけたぼくらは、男にうながされるまま、広場に停められた黒い車へと近づいていった。ドアが開き、山高帽をかぶった小太りの男が外へと出てきた。
「ごくろうさん、長旅で疲れたろう。いつものホテルに一泊して帰るといい」
 山高帽は男にほほえみかけた。そしてティランカには車へ入るよう命じ、一緒に車へ乗りこもうとしたぼくを乱暴に押しやった。
「おっと。どこからついてきたのか知らんが、おまえはここまでだ」
「この子と一緒じゃないと乗らないわ」
 ティランカがはっきりと声を上げ、山高帽の目をまっすぐ見つめた。山高帽は小さな目を右に左にせわしなく泳がせてチッと舌打ちをし、「野良犬つきか」とつぶやいて袋から二、三枚の札を抜いてポケットにしまってから、その袋を男に渡した。
「犬の餌代を差し引いた。ホテルには予約を入れてある。今から行って薄いビールでも浴びるんだな」
「そうさせてもらおう。じゃあな」
 山高帽から袋を受け取った男はぼくらに手を挙げると、ティランカにはなんの未練もないようにその場から去っていった。
「野良娘と野良犬、早く乗るんだ」
「ティランカで、この犬はパルよ。船着き場で会ったの」
 山高帽はそれには答えず、ぼくらを乱暴に後部席へと押しこめた。ドアを閉めると、意外と身軽なからだを弾ませて運転席へ飛び乗る。エンジンをかけ、車は広場のロータリーを滑り出した。
「いいかティランカ、身をわきまえるんだ。自分の食い扶持もどうかという時にそんな穀潰しの犬なんぞ連れてきて。きっとこれからどんどん大きくなって大量に飯を食う。おまえには二人分稼いでもらうことになるな」
「そんなの平気に決まってる。ねえ、パル」
 さっきまでの不安げな様子はどこやら、ティランカは急に明るい声を上げて、ぼくの顔をのぞいた。ぼくはフンフンッと鼻を鳴らして、熱くなった鼻先を彼女の頬に押しつける。ティランカは鈴のような笑い声を上げて、ぼくの頭を押さえた。船着き場の人混みの中、ティランカに後ろ足を踏まれたのはほんの数時間前のことだ。うなり声を上げたぼくをティランカはなんの躊躇もなく抱き上げて、ぼくの背中に、横腹に、顔をうずめて「許してね」とささやいてくれた。
 ティランカの持つ秋の朝焼けのような褐色の肌を、首、二の腕、てのひらと、順繰りに鼻先を押しつけているうち、「さあ着いたぞ」と山高帽の濁声がした。
 後部席のドアが開けられて外へ降り立つと、真っ白なテント小屋とまばらに並んだ木造の建物のあいだを、色や形もバラバラの何十人もの人間がせわしなく行き来していた。
「みんな、テントへ集まってくれ!」
 山高帽が大声を張り上げるとたちまち、ティランカよりも頭ひとつ、ふたつも低い小男がベルを鳴らして建物のあいだを走っていった。方々から姿を現した人間たちはテントの中へ吸いこまれていき、その内の何人かは通りがかりに、嬉しそうに顔を輝かせてティランカの肩を叩いた。
 ぼくはティランカと顔を見合わせ、先を競うようにテントの中へと駆けた。中は蒸し暑く、汗と埃とゴムのようなにおいが入り交じっていた。入り口から入ってきたぼくとティランカの顔を、五十人ほどの人々が興味深そうに見つめている。小さな子どもたちが大人たちをかきわけて姿を現し、ぼくを見て歓声を上げると、ポケットから取り出したボールを宙に放り投げた。ぼくは彼らに片耳をピクリと動かしてみせただけだった。見くびっちゃあいけない。きみたちよりもよほどぼくのほうが大人だ。
 台に上がった山高帽が、テントの中を見回してもったいぶった声を張り上げた。
「今朝も話した通り、新入りが入った。名前はティランカ」
「ティランカ」
「ティランカだ」
「団長、ティランカはいくつだ?」
 ざわめきは波のように広がった。団長と呼ばれた山高帽はわざとらしく咳払いをして、ティランカを台上に呼び寄せた。
「わがラタトゥサーカスのスターたちを紹介しよう。猛獣使いのブルーに人間大砲のブッツ。ブランコ乗りのリウ姉妹、彼女たちは上海から来た」
 団長がステッキを振りながら妙な節で紹介していくに連れ、五十人の熱気が高まっていった。空中アクロバットの若者たちに、イリュージョンを司る魔法使い、クラウンたちのミュージカルショー。ラタトゥで六十年の歴史を誇るというサーカス団の団員は、アジアや東ヨーロッパのあらゆる場所から集められた精鋭らしかった。
「ここに来られるとはなんとも幸運な娘だ。しかしこのティランカは書類によれば十五歳。東の果ての村で野菜を売っていた。やせぎすでなんの芸もなく、体力もない」
「十五歳!? 冗談じゃないぜ」
 猛獣使いが床に唾を吐き捨てると、あわてて小男がハンカチでぬぐった。「そんなに年をとっちゃあ、どんな芸だって覚えられない」
「そうだ。それならアクロバットか?」
「骨が歪んじまうよ。曲乗りパレードはどうだ」
「うちはいらん。足手まといだ」
「団長、バズーの餌にしかならんよ」
 そう言って猛獣使いが笑い声を上げると、恐るべき聴力で自分の名前に反応したのか、テントの外の檻に入れられたライオンのうなり声が壁を揺らした。ぼくはとっさに舌を隠して両耳を閉じ、床へと腹をつけた。
「わたしも昨夜から考えていたんだが。サムット、来てくれ」
 団員たちが道を空けると、一番後ろにいた透き通るような金髪の男が、杖に寄りかかり、空いているほうの左手足をゆっくりと揺らすようにして歩いてきた。
「高足(たかあし)サムットだ」
「〝スティルト〟か。そりゃあいい!」
 笑い声混じりで団員たちがヤジを飛ばした。団長が台を降り、わざわざつま先立ちをしてサムットの肩に両手を置いた。
「開催までの一ヶ月で形にできるか?」
 サムットは黙ってうなずき、青白い顔を上げてティランカとぼくをチラリと見やった。

 その夜はティランカの歓迎会と称して、サーカス団の大人たちは食堂でおおいに酒を楽しんだ。ビールやウィスキーが次々と運ばれてきて、男も女も浴びるように飲んでいた。なんでも、テントへ到着したティランカを一部の団員が歓迎したのは、新入りが入ると位が押し上げられ、飯の量が増えるからなんだそうだ。新人たちは毎日パンとスープだけ。現に今夜主役のはずのティランカに与えられた皿の上の食事は、量も少なくて粗末に思えた。何人かの子どもたちにもらったパンケーキの塊をテーブルの下からそっと差し出すと、心優しい小さなティランカは首を振り、「大丈夫だよ、パルが食べて」と言って顎の下をなでてくれた。
 派手な音を立ててそこらかしこの椅子をひっくり返しながら、大男の人間大砲・ブッツがこちらへ近づいてきた。
「おい娘、えやっ! 明日から俺の大砲に入ってみるか? 高足なんかよりよっぽど絶頂が味わえること間違いなしよ。えやっ! その尻まくって大砲の中で待っててくれりゃあ、俺が一緒に入って押し上げてやっから」
 時折変な叫び声を上げて酒臭い息をティランカに吹きかけたブッツは、突然彼女のやわらかな髪を乱暴につかんだ。のけぞったティランカが悲鳴を上げる。ぼくは勢い勇んでブッツの足首に飛びかかった。
「ぐわっ、いてえっ!! このクソ犬、噛みやがったな」
 ブッツがかがみこみ、ぼくのからだはいとも簡単に持ち上げられた。突然、食堂の天井やら壁やらがグルグルと回転したかと思うと、テーブルの脚に叩きつけられた。背中に焼けるような痛みが走り、首を動かすことができずにうめいていると、すぐ目の前に今度は小男と料理人が投げ飛ばされた。それを合図に、食堂は食器の割れる音と悲鳴とで一気に騒然となった。
 次の瞬間、バシッと鋭い音が響き、あたりは一転してシンと静まりかえった。なんとか顔を上げてみると、食堂の中央に立ちはだかったサムットが、自分の杖をブッツの太い首筋に打ちつけたところだった。ティランカがテーブルに駆け寄ってきて、ぼくを抱き上げる。ブッツは額と二の腕にぶっとい血管を浮かび上がらせ、天井に向かって「うおぉぉぅっ!!」と咆哮すると、サムットのからだを抱え上げて食堂の外へと飛び出していった。みんなが手を叩きながら、二人の後を追って食堂を出ていく。
「食事は終わりだ、ティランカ。おまえの部屋へ案内しよう」
 後ろから腕をつかんだ団長に、ティランカはぼくのからだを抱えたまま、「サムットはどうなるの?」と不安げな声を上げた。
「ああなるとブッツのやつは手に負えんよ。気にせず一緒に宿舎へ来るんだ」
 その夜はシーツにくるまっても眠れなかった。背中の痛みはだいぶ和らいでいたけれど、新しい世界に入りこんだという興奮と、食堂での悲鳴や騒音が耳の奥でわんわん響いて離れようとしない。ぼくを腹のあたりに抱いて横になっているティランカも同じ思いだったようで、たまに手足を痙攣させて、いつまで経っても寝息が聞こえてくることはなかった。

 翌朝、まだ日も昇らぬうちに叩き起こされた。ティランカはキッチンの端っこで芋の皮を剥いたりスープのあくすくいをしたり、食事の準備と片付けをたっぷりと手伝わされた後、ようやくパンをひと切れもらってテントへと送り出された。
 テントの外の広場では一輪車の男女がトレーニングを始めていて、一本の綱の上に実に軽快に、次々と飛び乗っては途切れることなく車輪を回している。テントの中に入ると、山羊の上に乗せられた猿がぼくに目配せをした。右を見ればブランコ乗りのリウ姉妹が逆立ちをしていて、左では私服で化粧気もない地味な魔法使いが指先からしきりに炎を出していた。
 ティランカは団長に言われた通り、テントの一番奥を目指して、空中ショーのネットの下を這ってくぐり抜けていった。
 壁際に積み上げられた木箱の上に、サムットが腰掛けていた。長い金色の前髪で隠してはいたが、顔や首のいたる箇所が腫れ上がり、ところどころ皮が破けて黄色くなっていた。
「痛そうだわ」
 ティランカが顔をしかめる。サムットは気にしていないようで、床からひとそろいの棒を拾い上げ、木箱から立ち上がった。
「これがスティルトだ。バカみたいに簡単だから、夕方には乗れるようになる。最初、この練習用の短いもので五十センチ。慣れれば二メートルでも三メートルでも平気だ」
 サムットはティランカを木箱に座らせると、棒の上のほうに、ティランカの足と膝をしっかりとバンドでゆわえつけた。そして自分も木箱に座り直し、ズボンの裾をまくりあげた。ぼくとティランカは同時に「あっ!」と声を上げた。サムットは無表情に自分の右脚の膝から下を外して、床の上へと放ったのだ。
「うわあ! ロボットだ!!」
 ぼくは歓声を上げて捨てられた脚に飛びついた。鼻先を寄せてみると、転がったサムットの右脚からはかすかに、古いゴム革のようなにおいがした。サムットは長さの違う棒を手に取り、短いほうを左足にくくりつけ、長いほうを短くなった右脚の膝と太ももに装着した。そのままひょいと立ち上がると、一メートルも足長になったサムットは、唖然としているティランカに手を差し出した。
「つかまって」
 おそるおそる伸ばしたティランカの両手を、サムットがぐいっと引きよせた。夢のように長身になったティランカが、サムットの腰をつかんで目を見開いている。
「そのまま、足踏み。ゆっくりでいい」
 サムットは片手を離し、ティランカの腕を取った。ぎこちなく両足を動かすティランカに「1、2、1、2」とテンポよく声をかけた。
「スティルトの注意点はたったひとつだけだ」
 サムットがそう言っていきなり手を離すと、驚いて取り乱したティランカの足下がぐらつき始めた。頭から後ろに倒れようとするティランカの肩を、サムットが素早く後ろに回りこんで前へ押した。悲鳴を上げたティランカはとっさに両手を前に突き出し、音を立てて床へと転がった。
「決して後ろに倒れないこと。これだけは命取りだ。前や横に転がるのはいくらでもやったらいい。もし後ろに転びそうになった時はこうだ」
 サムットは二メートル半もある高さから、わざと重心を後ろにかけた。倒れる瞬間、片足を後ろに出して地面を強く蹴った。ティランカよりも勢いよく前の床へと転がる。ズンッというにぶい音がして、サムットはしたたかに腰骨を打ったようだった。
「あとは……。あとは、バランスを取れるようにひたすら練習する」
「バカみたい! わざわざ自分で怪我をするなんて!」
「俺が教えられるのはこれくらいのもんだ。気がついたら乗りこなしているよ。信じられないほど単純なんだ。でも、きみも幕が開けばわかる。子どもも大人も、口を半開きにし、目をうるませて俺たちを見上げる」
 サムットは木箱へと這いずっていって座り、肩をゆっくりと上下させて息を整えた。「スティルトは託されているんだ。ショーが始まるまでに持てあましている、ふわりふわりと宙に浮くような気持ちや、観客の張り詰めたからだを、さらに高みに引き上げる役目をね」

 サムットの右脚が作り物であることは周知の事実だったようだ。その日の夕食の時、ティランカは何人もの団員たちに囲まれて声をかけられた。
「お嬢、サムットの義足を見たかい?」
「ええ見たわ。だからなに?」
 ティランカはなけなしのスープもパンもすぐに食べ終わり、さっさと食器を片付けようとしていた。ぼくには、ティランカが食事のあいだ中、ずっとサムットの姿を目で追っていたのがわかった。サムットは、クラウンやアクロバットの連中とも席を一緒にしている様子はなく、テーブルの端っこで食事をすませると杖をついて立ち上がり、一番に食堂から出ていった。
「サムットが毎晩こっそり宿舎の地下室へ通っているのを知っているかい? ブルーが見たっていうんだ」
 ルーマニア人の中年クラウンが肘でつつくと、隣に座っていたひげもじゃで汚らしい顔の猛獣使い・ブルーが神妙な面持ちでうなずいた。
「ああ見たよ。サムットのやつ、捨てられた動物の脚を切り取って、自分の膝から先に縫いつけていたんだ。毛だらけのスネをうっとりと見つめて、何枚もスケッチを取っていた」
「あの元左官屋が、手先が器用な上に品のいいご趣味だな」
「思い出しただけで身震いするぜ」
 肩を寄せて笑いあっている団員たちに目もくれず、ティランカはテーブルの下で待機していたぼくを呼び寄せて部屋へと戻った。
「ティランカ、脚が痛いの?」
 そう気遣いながら、少し引きずるようにして廊下を進むティランカを追った。狭苦しい部屋に入るなり、ティランカは靴を脱ぎ捨ててベッドに寝転んでふうと息をついた。
「平気よ、パル。初日だから、たくさん転んだせいだね」
 ベッドに上がり、腫れ上がって熱を帯びた彼女の脚を眺めた。やわらかな足の裏や、綺麗なコーヒー色のふくらはぎを丁寧に舐めてやると、ティランカはくすぐったそうに身をよじった。そのうち彼女は、前の部屋の住人が置いていった古本を読み始めたので、退屈になったぼくは部屋の中をグルグルと回った。
 正直言ってぼくは、サーカス団の連中を決して快く思っていなかった。感情的で、噂話が好きで、サムットやじいさん芸人や新人たちをバカにしている。それでも、港町にいたころの人間よりは幾分かマシだと思った。彼らはぼくのような、住処や飼い主を持たない者を見かけると、まるで元々姿がなかったかのように見て見ぬ振りをしていた。目の前の存在を消し去って、代わりに、遠くにいるきらびやかな憧れを自分の中に濃く描き出そうとする。くさいものには驚くべき速さでフタをし、自分の周りにはいつだってなにも問題はなく、平穏ですべてが整っていると思いこもうとしていた、なんとも嘘くさい連中だったんだ。
 よほど疲れていたのだろう。いつのまにか、ティランカは本に突っ伏したまま眠っていた。本をくわえて床へと落とし、シーツを引っ張って彼女の腰にかけてやった。

 翌日もサムットの容赦ない特訓は続いた。サムットは苦しがるティランカのことなど気にもとめず、彼女の両足を床に押さえて広げ、股を割っていた。
「無理よ、サムット。もう勘弁して」
「からだが硬いと重心が狂う。それにティランカ、きみは左足が少し短いようだ。今度靴を買う時は底の厚いものを。右の靴底を少しだけ削る。スティルトにも布をかませよう」
 サムットはそう言っているあいだにもティランカの脚をまた少しずつ広げていた。額に汗をにじませて「ぐぐぐ……」とティランカがうめき声を上げた。
「単純だ。足りない分だけ足せばいい。俺は生まれた時から自分の左脚と、継ぎ足した右脚でなんなくバランスを取っている。杖はただ単に義足の劣化をふせぐため。そう考えると、スティルトなんて難しくもなんともない。三メートルの身長でサッカーだってできるし、ダンスだってできる」
「ダンス? おかしいわ。そんなにのっぽになってまで踊らなくたって」
 そう言ってティランカは「はああ」と、笑い声かうめき声かわからない声を上げて顔を天井に向けた。
 股割りを終えてスティルトに乗ったティランカは、「脚が軽い」と喜んで足踏みをした。その頃にはサムットの手を借りなくても数歩は歩けるようになっていたし、装着も覚えていた。サムットは腕を組み、満足そうにうなずいた。
「自由自在に歩けるようになったら、スティルトの上でバルーンやジャグリングをするんだ。本番ではまず、俺と一緒にステージを一周する。そして俺が中央で芸をしているあいだ、きみがバルーンを持って子どもたちに聞くんだ。『ネズミと孔雀、どっちがいい?』ってね。ネズミのバルーンを欲しがる子どもなんていない。だからきみは、孔雀を作れるようにさえ練習しときゃいい」
「信じられない。そんな芸当がわたしにもできるようになるのかな。サムット、足下を見ずにバランスを取るだけでもすごく難しいわ」
「いや、世の中で一番簡単なことだ」
 そうしてサムットはその日の練習が終わる時、ティランカにバルーンの束を両腕いっぱいごっそりと渡した。(後編に続く)

 

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