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愉快な青春が最高の復讐!

愉快な青春が最高の復讐!

愉快な青春が最高の復讐!

奥田 亜希子 著
2020年5月26日発売
ISBN:978-4-08-771683-2
定価:本体1350円+税

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パーティーやBBQ、フェスといった要素は皆無。それでもこの体験は、紛うことなき「青春」だ! 記録魔の小説家、初のエッセイ集『愉快な青春が最高の復讐!』5月26日(火)発売

担当編集のテマエミソ新刊案内

2020年5月26日(火)、小説家・奥田亜希子さん初のエッセイ集『愉快な青春が最高の復讐!』が発売となります。

本作は、「大人になってからの青春」を綴った一冊です。そこには、パーティーやBBQ、フェスといった要素は皆無、何なら学生ですらありません。それでも、奥田さんが体験したある種の熱狂は、紛うことなき「青春」と呼べるものです。

登場するのは、奥田さんと、奥田さんが会社員時代に出会った、同期五人。平日は毎晩のように誰かの部屋に集まり、一台のベッドにぎゅうぎゅう詰めで眠る――会社のロッカーに共用の風呂道具を入れて、仕事帰りにみんなで銭湯に通う――北は北海道から南は長崎まで、弾丸旅行へ行きまくる――。
謎のバイタリティに溢れた6人を見ていると、自然とこちらも元気が出てくるはず…です。

小学生の頃から日記を取り続けてきた、記録魔である奥田さんだからこそ鮮明に振り返ることのできる、あまりにもさっぱりとした自虐エッセイです。
どうか笑ってあげてください!


【内容紹介】
会社の同期とは、仲良くなれないと思っていた――。
社会人になりスコールのように降ってきた怒涛の青春&痛々しくて直視できない過去の日記の数々……。
計14回に及ぶ弾丸旅行/つなぎ着用地獄のウォーキング/大人になってからの交換日記/ドレスコードのある人生/滑らないサンドスキー/子育てと罪悪感/35歳はじめての一人旅/記録魔の片鱗/人生初の同窓会

【書評】 評者:花田菜々子(書店員/『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと 』著者)

 自分が「モテない」ことを前提として、劣等感や自虐をまじえながら面白おかしく自分を描く文化というのは、この20年でほとんど出尽くした感がある。江川達也や古谷実によって描き出された「モテなさ」はやがて男子だけのものでさえなくなり、かつては選ばれる側でしかなく声を持たなかった女子へも、オタク界隈の「腐女子」や能町みね子の「モテない系」というワードとともに大きな共感を持って一気に広まった。そして時代の変化とともに自虐は廃れ、最近ではモテなくても楽しい、という部分の方が強調されているように思う。
 さて、奥田亜希子のこの問題作についてである。初めてこの本の話を聞いたとき、「はいはい、それ系ね」と感じたのもまた事実である。だがしかし、読み進めるうちにこのただごとでなさに震撼した。面白おかしく脚色したエンタメ的なモテなさではなく、ダイヤモンドの原石のような本物の輝きがドテッとそこに転がっていたのである。本物のダサさ、イタさがここにはある。
 しかしながら、この本の主軸はそのダサさイタさではなく、そんな暗黒の学生時代を過ごした著者に遅れてやってきた、友人たちとの楽しい日々の記録である。だがそれは、モテなさや垢抜けなさを克服する、という種類のものではない。ダイエットをして、メイクを覚えて、おしゃれな場所でデートして……といった今や古臭い成長物語とは真逆の方向へ著者は突っ走っていく。モテない人たちの仮想敵になりやすい「リア充」「パリピ」「ウェイ系」の人たちとの闘いもない。もはや敵視する必要もない。20代中盤で訪れたピュアな人生の喜びは、誰かの性的承認やカーストの上にいる女子たちとの競争の必要もなく、自立した喜びなのだ。まるでガンジーのように、誰かを攻撃しなくても闘うことができると教えてくれるのである。
 それでも。この本のタイトルには「復讐」という言葉が入っている。
 先日webで悲しい記事を見かけた。女性の社会学者による対談の記事で、「エロス資本」という言葉を用いながら「女性の価値は20歳前後で頂点に達し、35歳でくらいで消失する」という説が誰にとっても事実であるかのように話が進められていた。なぜ社会学者を名乗りながら、そのエロス資本なるものを持つことすらできず、価値のスタートラインにさえ立つことができずに苦しめられた20歳前後の女子の存在をなかったことにできるのだろう、と怒りが湧いた。スタートラインに立てないのは、もちろん外見の問題だけではない。
 もちろん彼女の意見には多くのフェミニストたちがまっとうな反論をするだろう。だがしかし、どうだろう、奥田亜希子のこの、そんな価値観と闘うことすら放棄して、みんなでダサいお揃いのつなぎを着て、カラオケで深夜に「はたらくくるま」を熱唱する姿こそ、彼女に対して最高の復讐になるのではないか。彼女がどんなに「若くて綺麗な女子にしか価値はない」という呪いを擦り込もうとしてももう無駄だ。だって著者たちの「ゆうびんしゃ!」「せいそうしゃ!」というコール&レスポンスがにぎやかすぎてもうそんな呪いの声は聞こえないのだから。
 時代の変化とともに、モテない語りはそろそろ終わりを迎えると思う。私には、時代が作り上げたこの大きなジグソーパズルの最後の1ピースを、奥田亜希子が置いてくれたように感じられた。

【漫画書評】 評者:山本さほ(漫画家)

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【試し読み】

まえがき

 新社会人時代の同期五人のことを、人に「同期」と説明する癖が抜けない。
 おかしいことはなにもない。私たちは確かに約十五年前、二〇〇五年の内定者懇親会で初めて顔を合わせた間柄で、私自身はその会社に一年しか勤めなかったけれど、その間、彼女たちと一緒に働いていたのは、掛け値なしの真実だ。それでも、私が彼女たちと遊んだ話をすると、相手はしばしばびっくりした顔でこう言うことになる。
「えっ、同期とそんなことするの? 仲がいいんだね」
 そのたびに、またやってしまった、と思う。

 私は同期と徹夜カラオケをしたことがある。
 旅行に行ったことがある。
 官能映画を観たことがある。
 交換日記を回していたことがある。
 色違いのつなぎを着て、夜通し歩いたことがある。
 丸めた新聞紙をガムテープで固めて、人間の大きさの人形を作ったことがある。

 たぶん、最初から「友だち」と話していれば、相手を戸惑わせなくて済んだのだ。「友だち」だったら一緒にどんな遊びをしても、「仲がいいんだね」とは言われない。だってそれは、そもそも親密な人間関係を表す言葉だから。話が相手の耳にすっと入るよう、次からは気をつけようと思っても、結局忘れる。同期は同期。その感覚がいつまで経っても消えない。
 そうして私は今日も、「同期と高尾山に登ったんだけど」「同期と着物で集合して神社に行ったときに」と口にして、人に驚かれている。

 収録されている二編のうち、表題の「愉快な青春が最高の復讐!」は、そんな同期との思い出を中心に、私の青春について書いたものだ。全十回、集英社のPR誌「青春と読書」に連載していた。自分には縁遠いものと諦めていた青春が、社会人になったと同時にスコールのような勢いで降ってきた。その驚きは、いまだに胸の中に生きている。もう一編の「記録魔の青春を駆け抜ける」では、途中何度か奇声を上げつつ、小中学校時代も含めた過去の日記を可能なかぎり振り返った。

 青春という言葉に気持ちが明るくなるウルトラハッピーな方にも、殺意や絶望に似たなにかが湧き上がる方にも、この本を楽しんでもらえたら嬉しいです。


1 空腹のライオンでもゾンビのほうを

 青春を味わうには資格が必要だと思っていた。
 休み時間に大きな声で話したり、ため口交じりに教師と雑談したり、制服を着崩したり。きっと、その手の行動に青春はついてくる。体育の授業を偏愛したり、提出物の期限をラフに無視したりするような精神性も大切で、もちろん、友だちは多くなければならない。そんな無邪気さをたくさん集めた若者だけが、ブルースプリング王国の門をくぐることができる。王国の海はソーダ水のように澄み渡り、浜はどこまでも白い。城では昼夜を問わずパーティが催され、皆、ビンゴで盛り上がっている。国技は当然フットサル。バーベキューイベントはマストです。この、自分の小説に軽く不安を覚えるほど陳腐な想像が、私にとっての青春だった。
 どこをどう大胆に分析しても、私の人間性は青春に向いていなかった。夏休みの宿題は、毎年八月の前半に終わるようこつこつ進めた。制服の着こなしも至って標準で、それはつまり、とんでもなく野暮ったかったということだ。高校時代の写真を見ると、野放図に育てられた私の眉は左右で大きく形が違って、よくもまあ方向性の違いで解散しなかったものだと思う。ルーズソックスブームにも染まらず、携帯電話を持ったのもクラスで一番遅かった上に、お小遣いの半分以上を費やして、自分で使用料を払っていた。
 同級生の男子とは、年に十回も話さなかった。一度、教師の発言に教室が笑いに包まれた際に、「ほら、奥田さんも笑ってるじゃん」と混ぜっ返しの材料として使われたことがある。私を傷つけたいという意図は感じなかったけれど、その男子に対等な人間として見られていないことは、はっきりと分かった。彼は数年前にご商売を始められたようで、私はときどきホームページをチェックしては、彼の笑顔にまだ腹が立つかどうかを確かめている。
 今、見てきた。やっぱり、腹、立ったよね。

 とはいえ、真面目な人間だったわけではない。掃除をさぼったことも、答えを丸写しして宿題を終わらせたことも、何度もある。ただ単純に、前向きに生きる気力がなかった。あのころの私とゾンビが並んでいたら、空腹のライオンでもゾンビのほうを食べたと思う。「先生にアルバイトがバレた! どうしよう」と同級生が騒いでいた高校時代、私の母親は私の担任教諭から、「学校に許可を取って、亜希子さんにアルバイトをさせてはどうでしょうか」と助言されている。学校生活は問題なく送れているけれど、覇気がないのが気になると言われたそうだ。
 この、教師に心配されるほど無気力に通っていた高校を、私はなんと皆勤で卒業している。たぶん、本当に心が死んでいたのだと思う。サボるという向上心さえ持ち合わせていなかった。そう、思考停止状態に陥っていない人間だけが、嫌なことから逃れられる。学校をずる休みしたり、授業を抜け出したりした話を人から聞くと、私は今でも、すごいなあ、生きてる人間って感じがするなあ、と思う。
 こうなった理由の九十八パーセントは自分の性格にあるとして、二パーセントだけ学校のせいにしたい。いや、させてください。思うに、地方都市にある偏差値が中ごろの高校(あくまで当時の私の体感です)は、空気が倦みやすい。その学校に通う生徒は、小中学時代はそこそこ勉強ができたため、逆境にあまり強くない。受験を通して上には上がいると痛感し、子どものときに見ていた夢は、どうやらそのままの大きさでは叶えられそうにないことを知る。街はそれなりに充実していて、なにがなんでも都会に出たいという意欲も湧きづらい。夢中になれるものや将来の展望、もしくはどうしても逃れたいなにかがないと、心はじわじわ気力を失っていく。

 二〇一四年の秋、私は自分の出身高校をイメージして、「キャンディ・イン・ポケット」(新潮文庫『五つ星をつけてよ』収録)という短編を書いた。先生がこれを授業で取り上げてくださった関係で、たくさんの感想を読む機会に恵まれた。「面白かった」「まさに自分の通学路の風景が頭に浮かんだ」など、好意的な言葉が並ぶ中で、もっとも多く目についたのが、「うちの高校から作家になる人が出てくるなんて」という一言だった。
「……分かる」
 後輩たちの感想文を手に、私は自宅で一人呻いた。私自身、本の著者プロフィールに目を通しては、作家の出身大学をやたらに確認していた時期があった。昔から漠然と憧れていた職だった。なのに、どうにも有名大学ばかりが目に飛び込んでくる気がして、なるほどなるほど、だったら私には無理だ、と、あっさり結論を出していた。
「学歴がすべてじゃないでしょう」
 そうです。
「頑張ることから逃げるため、理由を探しているだけでは」
 そのとおりです。
「成功している人間は、みんな相応の努力をしているんだ」
 おっしゃるとおりです。
 けれどもあのころの私は、自分が努力することに、どうしても意味を見出せなかった。自分に価値はないと本気で思っていた。私は昔から自分のことがあまり好きではなく、いつだって違う誰かになりたくて、つい最近までそのことを自己肯定感や自信の問題だと考えていたけれど、どうやら少し違うみたいだ。自分が好ましいと感じる人間性を、自分自身が保有していないのだと思う。おそらく誰にでもいる、この人、悪い人ではないんだよなー、いいところもそれなりにあるのになー、と思いながらも、なぜか馬が合わない人。私にとって、それが自分なのだ。
 高校二年生のある日、自分にはこの先、特別な出来事は訪れないだろうとふいに悟った。誰かと付き合ったり結婚したり、喜怒哀楽を預けられるような趣味に生きたり、人からものすごく必要とされたり。そういった、自分史に蛍光ペンやシールでデコレーションしたくなるようなことは、なにも起こらないに違いない、と。
 それは絶望ではなかった。小説や漫画が読めて、数人の友だちとときどき会えるなら平気だ。あとは安定のために長く勤められそうなところに就職して、なるべく早くワンルームのマンションを買おう。突如閃いたその思いは、まるで神託のようだった。

 この約半年後、私は某漫画家のファンサイトで知り合った男の人と交際を始めた。なにが、ふいに悟った、だ。あの神託、とんだまがいものである。愛知在住の私と千葉に住む彼との付き合いは、いわゆる遠距離恋愛と呼ばれるものだったけれど、それでも世界は一変した。私の好きな人が、私のことを好き! すごい! 私は急に勉強に精を出すようになり、地元の大学に合格したあとは、なんとか垢抜けようと髪を染めた。服に化粧品に交際費。欲望を充足するにはお金が必要だと、回転寿司屋でアルバイトも始めた。
 それまで化粧品に縁がなかった私は、初めてのアイシャドウに緑色を選んだ。それを拙い技術で塗りたくっていたため、今思えば、河童のような顔面に仕上がっていたのだろう。大学で知り合った友だちの一人が、「茶色系のほうが似合うと思うよ」と指摘してくれた。「スルメを食べながら構内を歩かない」と、私の奇行を叱ってくれた友だちもいた。言いにくいことをきちんと伝えられてこそ真の友、という説がある。この二人とはなかなか会えないけれど、今でも仲がいい。ずっと仲がいいと思う。
 大学三年生のときには、ふたつ目のアルバイト先だった珈琲屋のお客さんに、「君は顔もスタイルも普通だけど、髪飾りは可愛いね」と褒められた。今考えると、少なくとも前半は、胸にがっちり鍵を掛けてしまっておくべき言葉だ。でも、顔とスタイルが普通と認定されたこと、さらにはヘアゴムを選んだ自分のセンスが褒められたような気がして、当時の私はとても嬉しかった。

 大学を卒業後、私は千葉で就職した。恋人との距離を少しでも縮めたかったのだ。そんな動機から勤め始めたのは、地域密着型のフリーペーパーを発行している、従業員数五十人ほどの会社だった。そこで出会った同期(橋本、矢田、山口、和田の四人に、ときどき清野が加わる)と、私は一生ぶんのはちゃめちゃを楽しむことになる。
 平日は毎晩のように誰かの部屋に集まり、一台のベッドに五人で眠った。会社のロッカーに共用の風呂道具を入れておいて、仕事帰りにみんなで銭湯に通った。勢いで前髪を切り合い、翌日上司から「罰ゲームで?」と真剣な顔で訊かれた。北は北海道から南は長崎まで、あちこち旅行に行った。
 パーティもビンゴもバーベキューも見当たらず、若者でもない。なにせ、みんな立派な社会人だ。先発品の特許期間が終了したのち、同様の効能を持つものとして製造される薬のことを、ジェネリック医薬品という。私が体験した青春は、ジェネリックだったのかもしれない。それでも同期と過ごした日々を、私は「青春」としか呼べない。
 例の交際相手とは、私が二十三歳のときに入籍した。二十八歳で子供を産んだ。すばる文学賞を獲ったのは、その一年半後だ。これは本当に私の人生なのか、と今でもよく思う。高校二年のときに覚えた悟りは、見事にひとつも当たらなかった。
 私はときどき高校生のころの自分に話しかける。私、結婚したよ、子どもがいるんだよ、と。新刊が発売されれば、本が出たよ、と告げる。東京の美術館に一人で行ったんだよ、とか、ママ友が開いているお菓子作り教室に参加したよ、とか、あのころの自分が驚きそうなことを選んでは伝えている。
 私のエッセイが本になったことを話したら、彼女はきっと怯えるだろう。お金を出して読む人がいるの? と左右非対称の眉をひそめる姿がたやすく想像できる。もし私の声が届くとしても、君は大丈夫だよ、みたいな言葉は口にしたくない。そう簡単に喜ばせてたまるか、という気持ちがある。
 ただ、せめてものアドバイスとして、その眉毛、なんとかしたほうがいいよ、と、それだけは言うつもりだ。


2 とろとろしてるから

 会社の同期とは仲良くなれないと思っていた。
 先に社会人になった当時の恋人、現在の夫より、「会社の人とは友だちになれないよ。ある意味でライバルなんだから」と、しょっちゅう忠告されていた。また、同期が初めて顔を合わせた内定者懇親会で、みんな喪に服しているのかと思うほど話が盛り上がらなかったこと、一人が、「周りから変わっているとよく言われます」と、自己紹介したことも大きい。中学一年生のとき、廊下に貼り出される自己紹介に、「生まれ変わったら悪魔になりたい」と書いて失笑された自分のことを完全に棚に上げて、私は、人から変人扱いされていることをアピールする人って苦手なんだよねー、と思っていた。
 仲良くなれない予感が当たっても、構わなかった。そもそも私は恋人がいるから千葉に就職したのだ。今までは一、二ヶ月に一度しか会えなかったけれど、これからはもっと頻繁に彼の顔を見られる。彼と楽しく過ごす想像に、心はすっかり躍っていた。それ以外のことは、まあ、どうでもよかった。
 それがなぜ、ときに恋人の誘いを断って、平日や休日、長期休暇までも、同期と過ごすような展開になったのか─。

 すべての始まりは、二〇〇六年四月一日に行われた入社式の出しもので、みんな揃ってメイド服を着たことにある。内定者研修から実際に入社するまでの半年間、私たち新入社員はインターンシップとして、その会社にアルバイトに通っていた。私は三月下旬まで愛知の実家に住んでいたこともあり、同期とは滅多にシフトが重ならなかったけれど、矢田と和田はこの機会にぽつぽつ話をしていたようだ。メイド服は二人の発案だった。
 入社式の次の日には、街のイベントに新人全員が駆り出された。その翌日からは五日間の新人研修が組まれていて、私たちは狭い部屋でみっちり座学を受けることになった。この研修中も話が盛り上がった記憶はないけれど、連日朝から夕方まで一緒に過ごしたことで、互いの警戒心は薄れていたらしい。研修最後の夜、「これから打ち上げをしよう」という話が急に持ち上がり、唯一の男性同期を除いた六人で、橋本のアパートに集まることになった。この日は私も恋人と会う予定がなく、彼女たちの誘いを断る理由はなかった。
 こうして始まった打ち上げの終盤、五人から和田にサプライズでケーキが贈られた。誕生日が近かったのだ。驚く和田、そして私。私もまた、ケーキの演出をまったく知らされていなかった。みんなに合わせてバースデーソングを笑顔で歌いながら、いつの間に! と思った。あれ? ハブにされた? とも思った。普通に思った。同期のことはどうでもよかったはずなのに、もしかしてなにかやっちゃった? と、にわかに焦りを覚えた。
 ことの真相は、急遽サプライズを取り決めたため、連絡が全員に行き届かなかったという、とてもシンプルなものだった。状況を理解した途端、これは楽だぞ、と、私は視界が開けるのを感じた。在学中に一秒も運動部を体験しなかった私は、集団行動に対する経験値がとにかく低い。友だちは常に二、三人と少人数で、相手のことが好きだからこそ、常に濃密な繋がりを求めた。打ち明ける悩みの重さや喋るタイミングに注意して、抜け駆けや裏切りなどの誤解を与えないよう、できるかぎり気を配る。そうしたいと思うこと、そうされたいと願うことが、私にとって、人と仲良くなることだった。
 けれども六人組では、そうそうバランスを取ってもいられない。また、配属先が決まると、同期の中でも行動範囲の重なり具合に差が出てきた。こうなると、タイミングの合う相手とランチをしたり、飲みに行ったりするのが当たり前になる。この人と喋りたいという動機で約束するわけではないから、二人で会っていても深い話にならない。それが心地よかった。楽であることを基盤に人と親しくなってもいいことを、私は齢二十二にしてようやく知った。
 友情とは、魂の繋がりとイコールではなかったのだ。

 社会人一年目の六月、都内より通勤していた矢田が、ついに会社の近くに引っ越してきた。これで六人全員が、自転車で行き来可能な範囲に一人暮らしをしている状況が完成した。おはようからおやすみまで、暮らしを見つめ合う関係の爆誕である。
 虫が光に引き寄せられるように、私たちは夜ごと誰かの部屋に集まるようになった。みんなでテレビを観て、実のない話をして、眠くなったらうとうとする。参加頻度は人それぞれだったけれど、実家の門限から解放されたばかりだった私は、足を運ぶことのほうが多かった。誰もいない真夜中の街を、自転車でのんびり帰るのも好きだった。
 八月生まれの清野の誕生日には、「一度やってみたかった」という私の希望でスイカをくり抜き、フルーツポンチを作った。取り分ける器がなかったため、新聞紙を敷いた床にそれを置き、全員で囲んで食べた。十月の私の誕生日には、「HAPPY BIRTH DAY」と形作られたクッキーが会社のデスクに並んだ。三月は、矢田の誕生月だ。私たちは大量の新聞紙とガムテープで人間の大きさの人形を作り、顔の部分に彼女の好きな俳優の写真を貼りつけて、それをプレゼントにした。確か矢田は、自転車のカゴに新聞人形の臀部を突っ込んで、深夜二時ごろ帰宅したはずだ。矢田が職務質問されなくて、本当によかった。
 入社式の出しもので使用したメイド服をふたたび着て、デリバリーピザを受け取ったハロウィンのこと。誰も、なににも負けていないのに、なぜあんな罰ゲームのような真似をしたのか、まったく思い出せない。思い出せないまま死にたい。上限金額五百円でプレゼントを交換した、クリスマス会。花見もやった。花火もやった。落ち葉で芋も焼いた。寒い夜に、「湯冷めする!」と騒ぎながら、銭湯とおでん屋のはしごもした。
 上司のクライアントだった、中高年女性が主な購買層の衣料品店で服を買い、土曜出勤の際にみんなで着たこと。それぞれ恋人や元恋人に電話をかけて、自分の外見のどこが好きか、やにわに尋ねたこと。私の恋人の、「目の下の黒いところ」という答えは「どこ!?」とその場を混乱に陥れ、「耳」と返した矢田の元恋人は「センスがある」と讃えられた。
 あるときには、官能映画鑑賞部も結成した。仕事終わりに自転車をかっ飛ばして映画館に行った日、実は山口は体調を崩していて、先輩たちからは、「行っちゃだめだよ!」と止められていたという。それを振り切って参加したにもかかわらず、上映開始二十分で気分が悪くなり、結局リタイア。濡れ場をひとつも観ることなく帰って行った。山口が見せた、謎かつ無意味なガッツだった。
 もっとも開催頻度が高かったのは、なんと言っても徹夜カラオケだろう。全員で盛り上がれる歌を探していた私たちは、「DANZEN!ふたりはプリキュア」や「撲殺天使ドクロちゃん」を経て、「はたらくくるま」に行き着いた。
「はがきやおてがみ あつめる ゆうびんしゃ」
「ゆうびんしゃ!」
「まちじゅうきれいに おそうじ せいそうしゃ」
「せいそうしゃ!」
 この歌に最高のコール&レスポンスという金脈が眠っていることを掘り当てたのも、山口だった。「はたらくくるま」を大合唱して、フリータイムが終わる朝五時にカラオケ店を退出する。それから近くの定食チェーン店で朝食を摂り、解散するというのが、私たちの定番の遊び方になった。
 二〇〇七年三月に私が退職したあとも、同期はおかしな遊びを量産し続けて、夏には矢田の部屋で台風を見る会が催されたそうだ。スーパーマーケットで投げ売りされていた惣菜を食べたあと、下着姿でベランダに出て、暴風雨を身体に感じたという。控えめに言ってもクレイジーだ。

 会社の先輩や上司は、私たちに優しかった。というより、甘かった。仕事の面ではもちろん厳しく指導されたけれど、空きロッカーを六人で占領して、風呂道具やお菓子を入れるなど明らかに調子に乗っていた新人を、調子に乗っているという理由で怒る人は誰もいなかった。
 ある日、私はリサイクルショップで玩具の綿あめ機が売られているのを発見した。価格は、なんと五百円。矢田と和田に話したところ、ぜひ買ってくるよう言われた。それまでにも麻雀牌やスケボーなど、誰かが入手した遊び道具をみんなで使うことがあった。「これで綿あめパーティができるね」と、私たちは頷き合った。
 とはいえ、綿あめ機は大きい。徒歩や自転車で持ち帰るのは面倒で、私は購入するタイミングを見計らうことにした。ところが、私に好機が訪れる前に、綿あめ機は店頭から姿を消した。まずいと思いながら、夜、会社で事務作業をしていた矢田と和田にその旨を報告すると、二人は急に声を荒らげた。
「奥ちゃんがとろとろしてるからだよ!」
 その瞬間の、上司の顔。すわ喧嘩かと大きく目を見開いたのち、どうでもいいことで揉めていることを察したらしく、あっさり仕事に戻っていった。綿あめ機のことで揉める新人と、それを完璧に受け流す上司。私たちもたいがいおかしかったけれど、周囲もかなりネジが緩んでいたと思う。
 この綿あめ機の一件は、いまだに尾を引いていて、店に予約を入れるなど私がすばやく行動に移すと、「あのときの教訓が活かされてるね」と褒められる。わりと嬉しい。

 それにしても、あのまったく盛り上がらなかった内定者懇親会は、一体なんだったのか。今なら分かる。私たちは全員、面接や仕事のときには明るく振る舞えるのに、義務感や強制力の働かない場では、人に心を開くことを極端に億劫がる。つまりは怠惰的人見知りを発動するメンバーだったのだ。


3 この世に生を享けて以来の

 休日とは、文字どおりに心と身体を休ませるためのものだと思っていた。
 私は体力がない。筋力もないから、腹筋も腕立て伏せも、ついでに鉄棒の逆上がりも人生で一度もできたためしがない。たぶん、本当にぎりぎりで人の形を保っている。寝転んでいる以外の体勢は、すべて運動という心づもりで生きていて、できれば毎日十時間、いや、昼寝も加えて十二時間寝たい。趣味も家の中でできることばかりで、室内にこもっていた状態から急に強い日光を浴びて蕁麻疹を発症したことが、これまでに二度ある。予定がなければまず家にいた。
 見知らぬ街に行ってみたいとか、自然と接したいという欲望も薄かった。予想外の出来事や大きな刺激を処理するのが苦手なのだ。現実は、本のようにページを閉じて、トラブルから逃れることができない。そんな性格の上にものぐさで、数字と手続きが大嫌い。こうなると、週末の二連休程度では、遠方に出掛けようという気持ちになりようがない。長期休暇に旅行することにはそれなりの憧れがあったけれど、小旅行に関しては、私の理解の範疇を超えていた。土日に旅なんかして、どうやって気力体力を回復するの? みんな自分を追い込んでるの? なにかの試練なの?
 社会人になってしばらくは、そんなふうに思っていたはずだ。なのに、気がつくと私は、同期と小旅行を繰り返すようになっていた。

 彼女たちと初めて遠出をしたのは、入社から四ヶ月が経った、二〇〇六年の八月のことだ。千葉の金谷港から横須賀までフェリーが出ていると知って、乗ろうという話になった。この企画に参加したのは、山口、矢田、和田、私の四人で、このうち山口と和田が鉄道好き。内房線に乗りたいという二人の希望も絡んでいた覚えがある。
 私たち全員に共通した趣味は、おそらくいまだにひとつもない。音楽好きは二人、サッカー観戦好きも二人、歴史好きは二・五人で、某アイドルグループの沼に片足を突っ込んだのは三人。本はみんなが読むけれど、好きなジャンルや作家はばらばらだ。ただ、人が立てた企画に乗っかる能力だけは、全員が神より授かっていた。フットワークの軽い、山口、矢田、和田の誰かが閃いたアイディアに、半開きの目と口で、「うん、行くー」と答える力。私は家で過ごすのが大好きだけれど、誰かが下調べやチケットの手配をしてくれるなら、行きたくない場所というのはほとんどない。そのことに、同期と知り合ってから気がついた。「はぐれ刑事便乗派」という、純情と便乗をかけたいだけのキャッチコピーを橋本と共に自称して、山口たちの誘いに秒速で賛同していた。
 この横須賀フェリー旅でもっとも印象に残っているのは、港で九州行きの船を見かけて、「あれに乗りたい! このまま遠くに行きたい!」と、みんなで騒いだことだ。まだ半人前だったにもかかわらず、仕事が大変なふりをするのが楽しかった。いや、大変ぶることで、立派に働いているような気持ちになれた。フェリーの甲板で缶酎ハイを飲んだのも、そういった背伸びの一環だったと思う。私たちは全力で社会人プレイに興じていた。
 内房線とフェリーに乗ること以外は目的が決まっていなかったので、横須賀に着いたあとは、そのへんをぷらぷら散歩した。目についた博物館のような施設に思いつきで入り、また歩いて、たくさん買い食いをした。「せっかく来たんだから!」のような、気合いに似た圧力を一切感じない旅だった。帰りの時間が設定されていないのも新鮮だった。
 それまで私は、人は目的地のために遠出をするのだと思っていた。辿り着いた先でなにをするのか。お金と時間、体力と気力を引き換えにして、なにを得るかが重要なのだと。なのに目的地も山場もなく、場所を横須賀から横浜に移してからも普段どおりにだらだらしているだけのこの小旅行が、妙に楽しかった。
 もしかしたら、ものすごく。

 同じ年の十一月、同期の清野が家の都合で退社し、九州の宮崎に帰ることが決まった。東京やその近郊に暮らしていると、都内の観光地にはなかなか足を運ばない。そこで、清野が千葉にいるあいだに、みんなで東京ベタ観光をしようという話になった。用事があって来られなかった橋本を除いた五人で、浅草、上野公園、東京タワーを巡った。東京スカイツリーは、着工どころか名称もまだ決まっていなくて、新旧の比較でふたたび注目が集まる前だったからか、東京タワーは空いていた。
 この数週間後、いよいよ清野が宮崎に帰る日、私たちは羽田空港まで彼女を見送りに行った。やっぱり来られなかった橋本以外の四人の中で、
「暇だし、行く?」
「行こうか」
 と、土壇場で決まったのだ。清野と空港のロビーで待ち合わせていた彼女の妹と弟は、姉の同期の登場にほんのり困惑している様子だった。職場の仲間が見送りに来るのは、確かに珍しいパターンかもしれない。遠くないうちにまた会えるだろうという根拠のない確信があったから、「じゃあね」と適当に手を振り合って別れた。その後、デッキから飛行機の離着陸を眺めて、すぐに千葉へ戻った。まるで学校の遠足のような一日だった。
 日本海を走る五能線の観光列車くまげらを見るために、山口と和田と上野駅の車両展示会に行ったときも、校外学習のような気分を味わった。二〇〇八年三月のことだ。撮り鉄の方々に交じって車両を撮影したのち、私たちは秋葉原の鉄道カフェへ向かった。そこで、ちょうど店を訪れていた海外メディアの記者からインタビューを申し込まれた。日本の鉄子(鉄道好きの女性)について取材していたらしい。自分ははぐれ刑事便乗派ですから、と断ることもできず、あたかもこの世に生を享けて以来の鉄道ファンです、という顔で、私も質問に答えた。
 五人で鎌倉に出掛けたときは、みんなで橋本の家に前泊し、官能映画鑑賞部の活動を果たしてから出発した。これは、二〇〇八年の六月のこと。ちょうどあじさいがきれいな時季だったけれど、花を見ようと言い出す者は一人もいなかった。私たちは朝から晩まで、ひたすらにアイスクリームを食べ続けた。大のアイス好きの和田の影響で、遠出の際にはその土地でしか味わえないアイスやソフトクリームを食べることが、なかば習わしになっていた。アイスのためにバスに乗り、ソフトクリームを求めて江の島に渡った。
 この日に食したのは、信濃ミルクソフト、岩手ミルクソフト、ロイヤルミルクソフト、紫芋ソフト、抹茶ソフト、蜂蜜ソフト、朝一しぼりたてミルクソフト、チョコチップアイス、紫芋バニラソフトの九種類。一人で全部食べたものもあれば、五人でひとつをつついたものもある。「アイスは一日一個まで!」と会社で上司から叱られたことのある私たちは、出発した直後こそ、「アイスは水! いくらでも入る!」と、もりもり食べていたけれど、実は……アイスは水ではない。水ではないのだ。夜、私たちは目に映った店に飛び込む勢いで、しらすのパスタとピザをむさぼった。身体に塩が染み入る幸せを、このとき初めて体験した。

 二〇〇八年八月には、朝五時半に東京駅に集合して、静岡の大井川鐵道を走るSLに乗った。二〇一〇年四月には、「男性器をかたどった神輿があるらしい」と、川崎で毎年四月に催されるかなまら祭に出掛けた。
 二〇一一年五月には、五年ぶりに横浜を再訪した。このときの移動手段はフェリーを経由せずに電車のみで、目的地も本牧に黄金町とあらかじめ決まっていた。アートショップが数多く立ち並ぶ黄金町は、かつては青線でにぎわった場所らしく、ストリップ劇場やポルノ映画館が点在している。その日は時間に余裕がなくて観られなかったけれど、官能映画といいかなまら祭といい、私たちは性にまつわる文化になぜか積極的だった。
 それなのに、個人の恋愛経験についてはあまり話されなかったことを、今更ながら不思議に思う。恋人の存在を半年近く隠していた同期もいたくらいだ。馬鹿なことばかりしている関係だったから、自分の生々しい一面を見せるのが、なんとなく気恥ずかしかったのかもしれない。それぞれの事情を知らないから、彼女たちと触れる性の文化は、学問みたいに感じられた。私にはそれが楽しかった。
 この日は日帰りではなく、中華街近くのビジネスホテルに泊まった。ちょうど山口の誕生日で、彼女の好きな俳優の顔写真をお面にして四人で被り、遅れて部屋に入ってきた山口を盛大に迎えた。お面を活用した撮影会を楽しみ、たっぷり夜更かしした翌朝、私以外の四人はホテルから会社に出勤していった。なんと、日曜から月曜にかけての小旅行だったのだ! とっくに退職して予定のなかった私は、通勤ラッシュを避けるため、チェックアウトの時間ぎりぎりまで部屋に残った。平日の朝、ビジネスホテル、横浜、一人。冷静に考えるほどわけの分からない状況だったけれど、とても贅沢な気持ちで本を読んで過ごした。人生の踊り場のような時間だった。
 電車に一人揺られ、千葉の自宅に帰りながら、最初のフェリー旅のことを思い出さずにはいられなかった。あのころの私は、関東に住み始めて半年も経っていなくて、街の名前も電車の路線も、なにも分かっていなかった。三軒茶屋は飲食店の名前だと思っていたし、乗り入れや接続の意味も知らなかった。神奈川は、千葉から遠い場所だった。それが、同期と小旅行を繰り返すうちに、関東はみるみる狭くなっていった。
 二度目の横浜旅からも短くない時間が流れて、今、私はこの世に生を享けて以来の都会人の顔で電車を乗り換えている。東京を舞台にしたときの私の小説には、電車や駅の情景がよく出てくる。自分でも、また電車! また駅! と思いながら、でも、書かずにいられない。たぶん私にとって鉄道は、関東の象徴なのだと思う。自分が関東に慣れたと思えるようになるまでの時間と、同期と電車で散々出掛けた経験が、分かちがたく結びついている。
 遠距離恋愛を終わらせるためにやって来た関東だった。千葉県民の彼と付き合い始めなければ、私は間違いなく地元で就職していた。恋人ともっと会いたい一心で愛知を離れることを決めて、就職活動の時期には何回も上京して……。あれ? わりと思い切ったことしてるな。小旅行よりよっぽど面倒くさくて、とんでもなく気力体力を使っている。
 私にも刺激を楽しめる心はあったのかもしれない。


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著者プロフィール

奥田 亜希子(おくだ・あきこ)
1983年(昭和58年)愛知県生まれ。愛知大学文学部哲学科卒業。2013年、『左目に映る星』で第37回すばる文学賞を受賞。著書に『透明人間は204号室の夢を見る』『ファミリー・レス』『五つ星をつけてよ』『リバース&リバース』『青春のジョーカー』『魔法がとけたあとも』『愛の色いろ』がある。本作は著者初のエッセイとなる。

愉快な青春が最高の復讐!

愉快な青春が最高の復讐!
奥田 亜希子 著
2020年5月26日発売
ISBN:978-4-08-771683-2
定価:本体1350円+税

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