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言の葉は、残りて

言の葉は、残りて

言の葉は、残りて

佐藤雫 著
2020年2月26日発売
ISBN:978-4-08-771697-9
定価:本体1650円+税

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第32回小説すばる新人賞受賞作。
新世代の作家が描く、何度も心を揺さぶられる歴史恋愛小説。

第32回小説すばる新人賞受賞『言の葉は、残りて』 刊行記念対談

佐藤 雫×村山由佳

冷静に、誠実に、小説を「たくらむ」

第32回小説すばる新人賞を受賞した佐藤雫さんの『言の葉は、残りて』は、鎌倉幕府の三代将軍・源実朝を主人公にした歴史小説です。この小説を「実直さに好感を持った」と高く評価された選考委員の村山由佳さんをお招きし、受賞記念対談をお届けします。
和歌を愛した実朝、公家出身の妻・信子、母政子ら北条家の人々……、幕府を開いた父・頼朝の死後、様々に繰り広げられる覇権争いと人間ドラマ。佐藤さんが小説を書こうと思われたのは約二年前。そこからどのようにこの小説が誕生したのでしょうか。

構成=砂田明子/撮影=冨永智子

実朝をめぐって夫婦喧嘩に

村山受賞作、すごく引き込まれました。私は舞台となる鎌倉時代の歴史に明るくなく、時代小説をそれほど読みつけてもいないのですが、読んでいると、鎌倉時代の風景や登場人物の顔、衣装などが、目の前に展開されていくんです。これは凄いなと。何の無理もなくその世界に連れていってもらえる小説を書くなんて、佐藤さんはどれだけ源実朝や、この時代が好きなんだろうと思ったんです。

佐藤ありがとうございます。時代としては、奈良時代や平安時代といった古代のほうが好きなんですが、源実朝は昔から好きだったんです。今私が書けそうなのは源実朝かなと思って、改めて調べて書きはじめたという感じです。

村山実朝なら書けそう、と思われた決め手は何だったんですか?

佐藤いくつかあって、まず、実朝は二十八歳で亡くなっています。私のほうが少し上ですが、世代が近いこと。それから、当時、仕事で行き詰まっていた時期だったこともあり、将軍という自らの運命と葛藤しながら生きた実朝と、その時の自分が重なったんです。

村山そういうアプローチだったんですね。いわゆる“推し”をみんなにわかってほしい、みたいな感じなのかなと思ったんですが、それだけではなくて。

佐藤もちろん私の推しである実朝を、みんなに好きになってもらいたいという思いも強かったです。というのも、以前、鎌倉の鶴岡八幡宮に夫と行った時、実朝を夫に悪く言われまして……。

村山えっ。何て?

佐藤将軍なのに和歌ばっかり詠んで、しょうもない男子、へたれ、みたいな言い方をされて、もやっとしたんです。

村山なるほど(笑)。旦那さんの意見は、当時の武将たちの感覚と似ているところがあるのかもしれませんね。

佐藤はい。夫婦喧嘩にはなりましたが(笑)、そういう印象を持っている人もいるんだと知ることができました。それで、へたれなどではない実朝の本当の姿を、私の中の実朝を知ってもらいたいと。書くなら実朝だと思ったんです。

村山選考会では、実朝という人物の歴史的役割をはっきりさせてくれた功績だけでも、この作品は評価できるという意見もありました。それから、目に見えるものの奥にある大自然や宇宙を歌に詠む人物だということを踏まえた上で実朝の人物像を組み上げていて、その文学的精神に感動したと仰った先生もいらっしゃいました。
 そもそも佐藤さんは、いつ頃から小説を書こうと思われていたんですか?

佐藤二〇一八年の一月で、先ほどお話しした、仕事で辛いことがあった時期です。学生時代から古文の授業が大好きだったのですが、手に職をという気持ちで、全く違う分野の今の仕事を選んだんですね。やりがいはあるのですが、ふと、私はこのままでいいのかなと思って。地道にコツコツ仕事をしてきたけれど、一度くらい自分の好きなことを思い切りしてみてもいいんじゃないかと。で、私の好きなことといえば古典と、通勤時いつもしている読書だから、その二つをつなげて何か書いてみようと思ったんです。
 そういう気持ちになってからは、作者はどういうたくらみを持って書いているのかを考えながら小説を読むようになりました。この伏線があるから、こういう展開になるのね、とか。そういう読み方を始めてから、自分にも小説が書けるかもと思うようになっていったんです。

村山そこからこれだけ乱れのない作品が書けるというのは、よほど読んでこられた?

佐藤中学生くらいから、本はずっと読んでいました。でも受賞作は二作目で、一作目は別の賞に応募して落選してしまったんです。本当に、まだ書きはじめたばかりという感じです。

「凡庸」という評に悩んだ

村山作品を読ませていただいた時から、佐藤さんは冷静に物事を見る人だという印象を持っていましたが、話を伺って、その思いが強まりました。実朝についてもとても冷静に、書けると判断されていますよね。大好きだからとテーマに選んでも、その人物の中身を書くだけのものを持っていない新人さんって、少なくないんです。その結果、やりたいことはわかるし熱は伝わるけれど、惜しい作品になってしまう。歴史ものに限らず、なぜこの主人公にしちゃったんだろうな、という作品をこれまでにもたくさん見てきました。佐藤さんの作品は、冷静に、着実に、隅々まで目配りが行き届いていて、何よりそうした誠実な姿勢に好感をもって、今回は絶対にこの作品を推すんだと決めて選考会に臨んだんです。

佐藤村山さんが評価してくださったと聞いて、とても嬉しかったです。

村山これはお話しするかどうか迷ったのですが……、今回は二作受賞で、もう一作の『しゃもぬまの島』と佐藤さんの作品は、全く色合いが違う小説でした。『しゃもぬま~』は誰も見たことのない世界を書かれていて、それに対する評価は高かったわけです。一方の『言の葉は、残りて』は、安定感はあるけれど、見方によっては新しいものが少ないんじゃないか、先達が創り上げた世界をぶち破っていないんじゃないか、という意見が出たんですね。でも私は、確かに突出した目新しいものがあるわけではないかもしれない、けれど、自分が書きたい世界に対してこれほど真面目に誠実に向き合って、すべての登場人物に目配りをし、伏線を回収し、という丁寧な仕事ぶりが評価されなければ、同じように仕事をしてきた私も浮かばれないと思ったんです。
 私は勝手に、佐藤さんの資質の中に、自分と似たものを感じとっていたんですね。デビューした時、選評で「凡庸」と言われてすごく悩んだ時期があったんです。でも、自分は尖ったものとか、目新しい武器では勝負できないから、持っている資質で勝負するしかないと思って、自分の見せたい世界に誠実に、ひたすらこだわって二十数年やってきました。それは正直、誰にでもできることではないと思っているんです。だから、もちろん佐藤さんはこれから新しい武器を手にすることがあるかもしれないけれど、今の持ち味はなくさないでもらいたいなと思っています。長々とごめんなさい。

佐藤お聞きできてよかったです。ありがとうございます。

登場人物に恥をかかせたくない

村山書いている時は楽しかったですか?

佐藤はい。書きたくて、書きたくて。書きはじめるととまらなくなって、食事するのも忘れているという感じでした。

村山体が細いのにエネルギーがあるんですね。やっぱりこの仕事、体力は絶対条件だと思います。渡辺淳一先生が仰っていました。作家たるもの、一と二は才能かもしれないけど、三、四、五は体力と運だよ、って。

佐藤お陰様で体力には自信があります。ただ、最終選考に残った後、三日間ほど手直しをする期間があったのですが、その間は仕事もあったので、ハードスケジュールできつかったですね。それでも書かなくちゃと。それは、賞を取りたいというよりは、登場人物のためでした。選考委員の先生方の前に、登場人物たちを恥ずかしい姿では出せないと思って。

村山自分の子供みたいだと、授賞式のスピーチで仰っていましたね。その感覚、すごくよくわかります。

佐藤登場人物たちが恥をかかないように、母親としてできることは徹夜してでもやろうという気持ちでした。

村山小説家にとって、今仰った「恥」の概念ってすごく大事だと思うんです。作品の質をどこまで高められるかに関わってきますし、もう一つ、選ぶテーマや人物の造形に深く関わっているのが羞恥心だと思うから。佐藤さんは、ご自身が恥ずかしい思いをしたくなかったのではなく、させたくなかったわけですよね。

佐藤そうなんです。

村山作家自身が恥ずかしいと思ってしまうと、自分にとって恥ずかしいことを書けなくなるんです。でも、多くの作家にとって、恥ずかしいことは大きな鉱脈です。私にとっては母親と性愛がそれだったわけですが、なぜ自分がこれを恥ずかしいと思うのか、そこを掘り起こしていくと、大きなものが横たわっているように感じています。だから、恥の概念が強いのはいいことだなと。
 登場人物で言えば、阿波局、いいですね。言わないでいいことを、言わないでいい人に、わざわざ言うキャラ(笑)。

佐藤北条時政の娘で政子の妹ですね。誰というわけではないですが、こういう人、いるなあと思って。

村山わかります。ただ阿波局の場合は、なぜ彼女がそうなったのかが垣間見られるんですよね。

佐藤読んだ人に実朝のことを好きになってもらいたいのですが、実朝以外でも、この人好きだなと思ってくれる人物がいたらいいなと。そのためには、たとえ脇役でも、その人なりの最後をちゃんと書こうと思っていました。小説を読んでいると、途中で出てこなくなって、あの人どうなったんだろうという登場人物がたまにいますが、私はそれが嫌なんです。どんな人にもその人の考えがあり人生があると思っているので、一人ひとり、その人なりの結末を迎えるように書いたつもりです。それを受けとってもらえたら、私の中のたくらみは成功したかなと。

村山それから好きだったのは、「きぃん」。実朝が母の政子を前にすると聞こえる音で、めっちゃわかるという感じ。子供の頃、母親の前に出た時の自分を思い出しました。

佐藤緊張するんですよね。これには私自身の経験も少し反映しています。母は、厳格というほどではないんですが、ちゃんと学校に行って、就職して、結婚して、子供を産んで、というのが女の幸せというタイプの人で、私はそういう母は母で好きだったので期待に応えようという育ち方をしてきたんです。千幡(実朝の幼少期の名)と政子の関係に、少しは影響したと思います。

村山小説家は何も無駄にならないですよね。

佐藤本当にそうですね。

村山人の心の多面性や複雑さを、深く推しはかるための手がかりに、小説がなってくれたらいいなと思うんです。そして小説を読み終えた時、読み始める前の自分とちょっと違う場所にいる。小説にそういうことができたら、もの凄い存在意義があると思うし、この作品はそういう小説になっていると思います。

面白い小説を書くことだけ

佐藤私はまだ現代小説を書いたことがないのですが、テーマなどはどのように思いつくんですか?

村山とくにデビューして最初の十年くらいは、自分が読んできた本や漫画、映画などから得た色合いや感触、後味といったものを、自分だったらどういう物語にして、どうやって差し出すだろうと考えることが多かったですね。たとえば『天使の柩』という作品のモチーフは映画の『レオン』だったんです。大きな悲しみを抱えながら生きてきた男性の心が少女によって開かれるという“村山流レオン”を書きたいなと。こんな風に、読み終えた時にどんな感触や色合いを残す小説を書きたいかをまず考えて、そこからストーリーを発想することも多いです。今は出口を決めなくても書けるようになりましたが、ある段階までは、入口よりむしろ出口が決まると書きやすかったですね。佐藤さんも、この物語の最後の情景は、わりと早い段階で見えていたんじゃないですか?

佐藤確かにそうです。出口から考えていました。実朝が早くに死ぬことは読者も知っているから、この小説の登場人物だけの終わりがほしいと思っていて。

村山素晴らしい視点だと思います。あと、実朝が妻の信子のことを「御台」ではなく、平仮名で「みだい」と呼ぶなど、それこそ言の葉に対する佐藤さんのこだわりが随所に見られるのもいいなあと。「美しい」と「うつくしい」では印象が違ってくる。私もけっこうこだわります。

佐藤嬉しいです。そういうところも書いていて楽しかったです。ここは平仮名にしようとか、ここはあえて漢字を使おうとか。そういうたくらみを形にできるのも小説の面白いところだと思いました。

村山新人賞を取ると、必ず次に書くものを聞かれると思いますが、佐藤さんには悪い意味での無謀な挑戦をしない冷静さがあるので、書きたいと思ったら、書きたいと思った瞬間に書ける気がします。

佐藤ありがとうございます。今は書きたいテーマがたくさんあり、何から書こうか考えているところです。

村山それは楽しみです。本が読まれないと言われて久しいけれど、私たちにできることって、面白い小説を書くことだけなんですよね。佐藤さんが今日何度か仰った「たくらみ」。それは小説を面白くするためのたくらみであるだけでなく、根底にはこれまで自分を育ててくれた小説へのリスペクトがあると思うんです。たくらみのある小説に動かされてきたわけですから。それを追求して、小説でしか味わえない感動のある小説をどんどん書いていってほしいと思います。

佐藤はい、頑張ります。今日はありがとうございました。

(青春と読書 2020年3月号より転載)


プロフィール

村山由佳(むらやま・ゆか)
1964年東京都生まれ。93年『天使の卵 エンジェルス・エッグ』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。著書に『星々の舟』(直木賞)『ダブル・ファンタジー』(中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞)『ミルク・アンド・ハニー』『燃える波』『猫がいなけりゃ息もできない』「おいしいコーヒーのいれ方」シリーズ等多数。

佐藤雫(さとう・しずく)
1988年香川県生まれ。「言の葉は、残りて」(「海の匂い」改題)で第32回小説すばる新人賞を受賞。
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言の葉は、残りて

   一

 千幡は御所の庭を一人歩いている。
 雨上がりの少しひんやりとした白い朝だった。風が吹いて、草花に宿る朝露が陽の光を受けて輝いていた。
(きらきら光る、玻璃の玉みたいだ……)
 千幡は透き通った露の玉を見て、いつだったか父の膝の上で見た、都から来た商人が持っていた玻璃の玉を思い出した。
 千幡はその輝きに引き寄せられるように草の中に分け入る。早朝の御所はまだひっそりとしていて、そっと寝所を抜け出した千幡に乳母も女房たちも気づいていないのだろう。
 鶴岡八幡宮の森だろうか、遠くの梢で鳴く山鳩の歌が朝もやの中に聞こえる。衣の袖がしっとりとするのにも気づかず、千幡はしゃがみ込み一つ一つの煌めきをじっと見つめた。露の玉に映った己の顔に、少し驚いて離れた。すると露の玉は晴れだした青空を映し、今度は淡く蒼く光った。色が変わったことが不思議で、千幡は珠玉を手に取るように、露を指でつまんだ。その瞬間、透明な玉は千幡の小さな手の中で水となって消えた。

「あれ?」
 千幡は自分の濡れた掌をじっと見つめた。立ち上がると辺り一面、星屑を散らしたように露の玉が風に揺れていた。
(どうして、消えてしまうのだろう。この美しい露の玉を、持って帰って母上に見せたかったのに……)
 母、政子の顔は、きぃんと凍った透明な氷のように美しいと思う。母に見つめられると、千幡の心もきぃんと張りつめたようになる。母に、花を摘んで見せたり、由比ヶ浜で貝殻を拾って来たりすると、その顔がほころんで瞬間融けたような笑顔になる。その表情に千幡は心底嬉しくなるのと同時に、張りつめた気持ちも融けるのだ。
 そんなことを、ぼんやりと考えているうちに、御所の方が慌ただしくなり女房たちが廊を歩き回る音がした。
「千幡様ぁ、千幡様ぁ」
 鎌倉の征夷大将軍源頼朝の愛息の寝所はいつの間にかもぬけの殻で、慌てた女房たちが廊を右往左往しながら千幡の名を呼んでいる。中でも、乳母の阿波局の声が特に大きい。
 千幡はしばらくの間、悪戯心で草の陰に隠れたままその様子を窺ってみた。
 阿波局は政子の実の妹でもあった。二人はあまり似ていない。見た目が、というわけではない。政子が何があっても毅然として落ち着いているのに対し、阿波局は些細なことでも大げさなくらいに感情を露わにする。
 そんな阿波局を幼心にからかうつもりで隠れていたが、千幡を探し求める阿波局の声が微かに震えているような気がして、いたたまれなくなって千幡は立ち上がった。
「ここだよ、阿波」
「千幡様、そんなところに……」
「うん」
 千幡は庭に面した廊に立つ阿波局の方へ歩み寄った。
「どこへ消えてしまったのかと心配しましたよ」
「そんな、大げさだなあ」
 消えてしまったという言い方が千幡にはなんだかおかしくて、声に出して笑った。だが、忽然と姿を消した千幡に、阿波局は相当慌てたのだろう。その顔は青ざめてさえいた。
「大げさなことはございません!」
 千幡は、将軍頼朝の後嗣の一人である。
 長男の頼家がすでに元服しているとはいえ、頼家と千幡それぞれを支持する御家人たちの思惑が絡み合い、いつ何が起きてもおかしくはなかった。
「とにかく、庭へ行かれるならそうと言って下さいませ。お一人で出歩くなど、このようなこと御母上様に知られたら……」
 きぃんとした母の顔を思い浮かべ、千幡の心もきぃんとした。
 母の少しえらの張った顔立ちは北条家の男たちに共通するもので、父は、そんな母を大切にしている。大切な北条の嫁、政子を。
 千幡は政子が妹の不始末を𠮟る姿を思い浮かべ、肩をすくめた。
「次からはそうするよ」
「そのような恰好で庭に出られては、またお風邪を召しますよ」
 阿波局は、千幡の肩に自分の羽織っていた袿を掛けようとして、驚いたように言った。
「まあ、こんなに露に濡れて」
 その時、千幡は自分の袖が濡れていることに初めて気づいた。
 自分が歩んだことで、気づかぬうちに美しい露の玉は袖に吸われて消えていったのか……。
 千幡は露の消えた方を不思議に思いながら眺めると、小さなくしゃみをした。

   二

 信子が住み慣れた都を発つ日はどんよりと曇っていて、北山から下りる冷たい風と共に粉雪が舞っていた。
 朝廷の権威を示すかのように、金銀錦の刺繡が施された襲を纏い着飾らされた信子が一歩、進むたび、衣擦れの音が重々しく部屋に響く。今日は邸の者は皆一様に余計なことは言うまいとでもいうように押し黙っていて、しんとした部屋の中に信子の衣擦れの音だけがする。
 父はうっすらと潤んだ目で信子を見つめ、母は御簾の奥でうつむいたまま、兄は、美しく着飾った妹に素直に見惚れていた。
 信子が用意された輿に乗り込むために外へ出た時、鎌倉からの迎えの武士たちが一斉に信子の姿を仰ぎ見た。ざっと武士たちが顔を上げる音がして、張りつめた空気にさざ波が立った。
(この、武士たちの頂点に立つ、将軍家に嫁ぐのだ……)
 信子が一瞬、身を震わせたのは、寒さのせいだけではなかった。
 信子は女房たちに促されるままに輿に乗り込んだ。輿のすぐ脇に控える女房の顔を見て、信子の気持ちが少し和らいだ。
「水瀬」
 そっと囁くと、その若い女房は「心配はいりません」というように目礼した。
 水瀬は信子が物心ついた頃にはすでに側仕えしていた女房だ。歳は十二歳の信子より五つほど上で、信子にとっては侍女というよりは、姉のように頼れる存在だった。
 信子が鎌倉へ嫁ぐことになった時、仕える者たちには都に残るか、鎌倉へついて行くかは本人たちの意志に任せるとした。一度鎌倉へ行けば、そう簡単には帰れない。女房たちの中には、やはり都を離れることはできぬと泣く泣く鎌倉下向を辞退する者もいた。慣れ親しんだ女房たちが離れていく中、こうして水瀬が残ってくれたことが信子は何よりも心強かった。
 一行が都の法勝寺の西の小路に差しかかった時、行列は止まり輿が下ろされた。水瀬が輿の御簾越しに囁いた。
「上皇様が御見送りです」
 わざわざ桟敷を設け、後鳥羽上皇自ら鎌倉へ下向する信子を見送っていた。その隣には信子の姉で、上皇の寵妃坊門局がいた。
 輿の中から、上皇と美しい姉の姿を信子は黙って見た。
(どうして、私が?)
 そんな思いが込み上げそうになる。
 幼い頃から見慣れた都を囲む青い山々、そよいでくる都の風、親しい人の顔……決して離れたくない大切なものたち……。東国の武士に囲まれて大切なものから引き離されていく妹の姿を、それらから決して引き離されることのない姉はどんな思いで見ているのだろうか。
 同じ、権大納言坊門信清卿の姫として生まれた姉と妹……しかし、歩む道は全く違うのだ。
 溢れそうな涙をこらえる信子の側には、水瀬がいた。水瀬は口数少なく、いつもこうして信子の側にひっそりと控えている。鎌倉からの縁談が突如降りかかった日も、そうだった。

   ◇

 摂関家の姫として、嫁ぐ相手は天皇か、東宮か、親王家か、それが当然のことでもあった。ところが、成人の儀である裳着を済ませた信子にやって来たのは、鎌倉の征夷大将軍との縁談だった。
 新しく鎌倉幕府将軍となった源実朝の妻になれという。
 父、信清から告げられた言葉に、信子は耳を疑った。
「鎌倉、にございますか」
 東国の海沿いにあるという、想像もつかぬ遠い土地の名であった。ちょうど、伏せ籠で飼っていた雀の子に餌を与えようとしていた信子の掌から、粟粒が零れ落ちた。動揺しながら信子は信清を見たが、信清はその視線から逃れるように庭に目をやりながら事の成り行きを伝えた。
「さよう。鎌倉の将軍源頼朝殿が落馬がもとで亡くなり、将軍職を継いだのは長男の頼家殿だった。だが、頼家殿は重い病でにわかに出家し身罷られた。それで新たに将軍職を継ぐこととなったのが、頼朝殿の二男、千幡君。急遽元服され、先ごろ源実朝という名を上皇様より賜った」
「…………」
 信子はそんな内情などどうでもよかった。なぜ、自分が、東国の武家に嫁がねばならぬのか、その理由が知りたかった。
「実朝殿はまだ若い。そこで朝廷と繫がりのある姫を妻にと望んできたのだ」
「それで、私が?」
「うむ。摂関家の中から一人、年頃の良い姫君をと談議があり、そなたが選ばれた。そなたは上皇様の従妹にあたり、歳も実朝殿の一つ下、申し分のない条件……」
 信清はそこで言葉を止めた。信子がうつむき肩を震わせていることに気づいたのだろう。
「信子よ、わしとてつらい」
 信清は信子に近づき、その震える肩に手を置いた。
「そなたを、かように遠くへ手放すことになるとは思いもしなかった」
 信子は顔を上げた。涙で滲んだ視界に映るのは、不安で泣いている幼子をあやすかのような父の不自然な笑みだった。信清はことさら優しく信子の背中を撫でた。しかし、信子の次の言葉にその手を止めた。
「父上様がそれを望んだのでしょう」
 私が何もわからぬ子供だとでも思うのか、と信子は父を睨んだ。
 今や権力は朝廷にあらず。
 信子にはありありと想像できた。宮中で「将軍の婿」を背景にして権力を振るおうとする父の姿が。
 信清は一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに落ち着き払い答えた。
「やはり、そなたは賢い。なんともありがちな言葉だが、世辞でなくそなたが男であったならと思う時さえあった。信子が忠信だったらと」
「…………」
 信子は長兄の顔を思い浮かべた。六つ年上の兄、忠信の品のある横顔。いかにも育ちの良さそうな青年貴族といった風貌だが、その育ちの良さゆえか人を疑うことがなく、よく言えば大らかで余裕のある、悪く言えば暢気な性格は気になるところだった。
「信子よ、そなたの賢さを見込んで本当のことを言おう」
「本当のこと?」
「この縁組は、何より上皇様がお望みなのだ」
「上皇様が?」
「そしてその繫がりは、上皇様と血縁のある姫であらねばならぬ」
「どうしてですか」
「そなたと実朝殿の間に男子が出来た時、その子が次期将軍となろう」
 信子は頰がぽっと熱くなるのがわかり、父から目をそらした。しかし信清は娘の恥じらいには動じなかった。娘を権力のために嫁がせるのは信子が初めてではない。
「その子は上皇様と繫がりの強い将軍となるのだ。……朝廷は再び力を取り戻す」
「ですが……」
 聡く問い返す信子からは、その時にはもう、一人の少女としての恥じらいは消えていた。
「もし、男子が出来ねば?」
「……その時は、そなたが後見となってしかるべき家から次期将軍となる子を迎えるのだ」
「本当はそれをお望みなのでは?」
 信子の鋭い切り返しに、信清は表情一つ変えなかった。信子は、父の表情が変わらぬことが、それが真意であることを告げているのだと静かに悟った。
 しかるべき家、とはどこの家なのか……。いずれにせよ、父が意図し、上皇が意図する血を将軍として迎える、そのための摂関家の姫なのか。
 信子は、ただ黙って父に深々と頭を下げた。それは、承知したという意味でもあり、女として生まれた己が身の運命を静かに受け入れる黙礼であった。
 何もわからぬ雀の子が、信子の零した粟を欲しがるように鳴いていた。無垢な鳴き声だけが響く部屋で、信清が再び信子の肩に手を置いた。
「だが信子、これだけは忘れてくれるな」
「…………」
「わしなりに、大切に育ててきた娘だ。嫁ぐ娘に、幸せになってほしいと願わぬ親はおらぬ。……そうなると信じて嫁がせるのだ」
 それは、弁明でもなく、詫びでもなく、父として娘へ語りかける、濁りなき愛情に満ちた素朴な言葉だった。信子はゆっくりと顔を上げ、その父の言葉に答えた。
「ならば私も、そうなると信じて嫁ぎましょう」

   ◇

 都からの長い旅路を、鎌倉から遣わされた御家人たちに囲まれて、信子は輿に揺られて進んだ。その間、水瀬はいつも信子の輿の横に連れ添い、信子が不便な思いをすることのないよう常に気を配ってくれた。
「まるで、幼い妹を世話する姉のようですね」
 気遣う水瀬を見て、屈託なく声をかけてくる若武者がいた。涼やかな目に鼻筋の通ったいかにも武家の好青年といった若い御家人を、水瀬は一瞥した。
 この畠山重保という名の若い御家人は、その爽やかな風貌で自然と相手が好感を抱いてくれることに慣れているのだろう。ことあるごとに水瀬に物怖じせず声をかけるのだった。
「姫様を私のような者の妹に例えるとは、無礼でございますよ」
 水瀬は淡々と重保を窘めた。
「よいではないか、水瀬」
 信子は輿の中から声を発した。
「そなたのことは、姉のように信じているのだから」
「もったいないお言葉にございます」
 水瀬は、恐縮したように頭を下げた。
「余計なことを申しましたかな」
 悪びれる風もなく重保は肩をすくめ、水瀬は重保を軽く睨んだ。二人を見やりながら信子は微笑む。重保は軽率な態度をとっても、不思議と憎めない若者であった。
 箱根の山を越えた頃には、口数の少ない水瀬をからかう重保を信子が微笑ましく見ている、和やかな雰囲気になっていた。
「姫様、まもなく鎌倉でございます」
 水瀬の声に、信子ははっとした。険しい山道を過ぎた後はなだらかな道が続き、ついうとうとしていたのだった。信子はそっと御簾の隙間から外を見やった。その時、眩しいくらいの蒼い光が信子の目を射た。
「止めよ」
 思わず、信子は命じた。突然響いた声に、輿を担いでいた力者が少し驚いたように足を止めた。それに合わせて、行列を警護している御家人たちの馬も一斉に止まり、嘶きと蹄の足踏み、鎧具足の重なり合う音がさざめく。
「どうかなさりましたか」
 信子の輿にすかさず重保が駆け寄った。馬上の重保はひらりと慣れた身ごなしで下馬すると跪いた。
「あれは……?」
 信子は御簾の隙間から指差した。信子の白く細い指がさす先を見て、重保は合点したように答えた。
「海にございます」
「これが、海……」
 道中、あいにくの天気で、晴れた海を見渡すのはこれが初めてだった。
 思わず身を乗り出して御簾を搔き上げると、水瀬が慌てて力者に輿を下ろすよう命じた。輿は地面に下ろされ、水瀬が改めて御簾を巻き上げる。信子が水瀬に手を引かれ外へ出ると、重保は信子に敬意を示すように頭を下げた。
 信子の目の前に、どこまでも蒼い海が広がった。深く蒼い海に、風が吹き寄せ白い波が打ち寄せては消えていく。波のさざめきが、信子の心を揺らし、見入れば見入るほど、心が吸い寄せられそうになる。
「まあ……」
 風が信子の黒髪を揺らし、今までに感じたことのない匂いが信子を包み込んだ。
「この匂いは……」
 重保の声が風と共に軽やかに響く。
「海の匂いにございます」
「海の、匂い……」
 信子は胸いっぱいに海の匂いを吸い込んだ。
 どこか切なく、たゆたう波のように心もとなく、それでいて沁み入るような……。
「水瀬、私は海がこんなに美しいものだとは思わなかった」
「さようにございますね」
 水瀬も海に心を奪われたように、蒼い景色を見つめていた。
「御所はもう近いのか」
 信子は重保に問うた。
「もうほどなくでございます。実朝様も今か今かとお待ちでしょう」
 実朝の名を聞いて、信子は胸のざわつきを覚えた。それはなぜか、打ち寄せる波の音に心が揺れる感覚に似ている気がした。
(いったいどんな人なのだろうか……)
「実朝様は、それは賢く、お優しい御方にございますよ」
 信子の気持ちを察したかのように、重保が言った。重保の言葉にはもちろん世辞も入っているのだろうが、その口調や表情に偽りはなさそうだった。
「もうこの先は鎌倉の町にございます。鎌倉の地は一昔前まではただの小さな漁村でしたが、頼朝様が鎌倉入りされてからは人が集まり物が集まり、今や都にも劣らぬ賑わいにございますよ」
「姫様、あまり長居しては……」
 立ち尽くす信子に、水瀬が少し諫めるように言う。その時初めて、路傍に大勢の見物人がいることに気づいた。物珍しげに信子を見る鎌倉の民たち。都からやって来たという「新しい将軍の御台所」を一目見ようと、皆、興味津々の面持ちだった。
 大勢の人々の目に晒されていることに信子は恥じらいを感じたが動揺はしなかった。下々の者たちに姿を見られても、慌てて身を隠すことはせず、むしろ堂々と背筋を伸ばして笑顔を見せる。
 そんな信子に魅了された鎌倉の民たちの明るい感嘆の中、再び信子は輿に乗り、鎌倉の町に入った。
 鎌倉の中心を貫くように一本の太い道が通っていて、その道から都のように小路が整えられ、神社仏閣の伽藍や武家の邸宅、庶民の家々などが入り交じっている。しかし都の広々とした盆地とは異なり、三方を山に囲まれた狭い地にそれらがひしめき合い、山の斜面にすら家が建っている。
「ずいぶん狭い土地ですね」
 率直な水瀬の感想に、重保は快活に笑った。
「ははは、都に比べたらそうでしょう。鎌倉は谷戸といって山と山の間の狭い土地が多くあるのです。御所の裏もすぐ山ですよ。住むには多少不便かもしれませぬが、守るには容易な土地にございます。三方は山、前は海、敵は山から攻めるか海から攻めるかしかありませぬゆえ」
「まさに武家の都なのですね」
 輿の中から二人のやり取りを聞いて、信子は心がさらに重くなった。敵に襲撃されることを想定して作られた「武家」の都で待つ実朝は本当に優しい人なのだろうか……そして、この鎌倉の地で「公家」の自分はどう生きればいいのだろうか。
 真っ直ぐに延びる道の先には朱塗りの大鳥居と楼門が見えた。
「この道は朱雀大路か」
 まるで都の中央を南北に貫く朱雀大路のような雰囲気に懐かしさを感じて信子は尋ねた。重保が丁寧に答える。
「いいえ、若宮大路にございます。突き当たりにあるのが鶴岡八幡宮、鎌倉を鎮守する社であり、源氏の守護神にございます。その鶴岡八幡宮の東に御所がございます」
 御所、と聞いてまだ見ぬ夫のことを思い、また信子の胸は不安に揺れた。それを気取られぬよう、そっと「そう」とだけ答えた。

〈続きは本編でお楽しみください〉

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著者プロフィール

佐藤雫(さとう・しずく)
1988年香川県生まれ。「言の葉は、残りて」(「海の匂い」改題)で第32回小説すばる新人賞を受賞。

言の葉は、残りて

言の葉は、残りて
佐藤雫 著
2020年2月26日発売
ISBN:978-4-08-771697-9
定価:本体1650円+税

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