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刊行記念特別インタビュー

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草花たちの静かな誓い

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宮本輝さんの新作は、ロサンゼルスを舞台に引き裂かれた母子の謎を追う傑作長編!
12月5日発売『草花たちの静かな誓い』

定価:1,700円(本体)+税 12月5日発売


宮本輝さんの新刊『草花たちの静かな誓い』は、アメリカ西海岸の陽光降り注ぐ街を舞台にした、ミステリーの趣ある作品です。
急死した叔母から、巨額の遺産を相続することになった主人公・弦矢は、アメリカ人と結婚してロサンゼルスで暮らしていた叔母の遺した家に滞在し、多様な人々と出会いながら、彼女の隠されていた人生にぐんぐん迫っていきます。この作品について、宮本輝さんにお話を伺いました。
聞き手・構成=江南亜美子/撮影=HAL KUZUYA


ランチョ・パロス・ヴァーデスという土地

――今回の作品では、ロサンゼルスの高級住宅地の風景が大きな意味を持ちますが、ここを舞台にされた理由からお伺いします。吉本ばななさんとの対談をまとめた『人生の道しるべ』(集英社)で、宮本さんは、「六十歳を過ぎて、また風景から小説が生まれてくるようになったと感じている」と仰っていましたね。

 ロサンゼルスのランチョ・パロス・ヴァーデスという街は、白人の金持ちのために造成されたような、海辺のリゾート地です。丘陵地があり、夜景もきれいなところです。最初はこの街を小説に書いてやれという気など毛頭なくて、たまたま息子が仕事の関係で街のはじっこに住んでいたときに、二度ほど遊びに行ったんですよ。孫の顔を見にね。僕は、同じ場所から動かずに、一週間ぐらいぼーっとしているのが好きですが、女房はそうはいかないので、息子が車であちこち案内してくれました。せっかくだからとビヴァリーヒルズにも足を延ばしたな。しかしここがそうか、というだけでべつに興味も惹かれなかった。結局、ランチョ・パロス・ヴァーデスの居心地が一番よかったんです。
 南カリフォルニアはやっぱりきれいなところですね。自然が豊かでジャカランダが咲いていて。この木が芽生えたとき、まだアメリカ自体が建国されてなかったんちゃうかというような太い幹の木もあった。アメリカ人にとっての、理想の高級住宅地を体現する街なんだなと思いました。滞在中、大型スーパーに買い出しに行ったんですよ。現地の人はコスコと呼ぶ、日本で言うコストコです。レジあたりにチラシが大量に置かれていた。注意を払う人も持って帰る人もいなくて、風で散乱していて、何気なく文面を見たら「この子を探しています」と。行方不明になった十歳ほどの女の子を、親が懸命に探していると書かれていたんです。

――人探しのビラだったんですね。

 日本だと、女の子が一人いなくなったら大事件として報道されるでしょう。しかし向こうではもっと凶悪な事件も多いので、それではニュースにならない。ビラは何人分あったかな……。少し調べてみたところ、身代金を要求されたり、遺体で発見されたりすると、地元の警察ではなくてFBIが動くようです。メキシコと国境を接しているし、車でスッと逃げられたら地元警察ではお手上げ状態ですからね。こんな明るい土地で、なんでこれほどたくさんの小さい子が誘拐されるのか、と考えるうちに、今回の小説がだんだんと浮かんできたわけです。
 スーパーでチラシを見て、この場所でしか書けないものを書くと決めたときに、これまでの宮本輝的なものから少し外れてみようという気持ちも湧きました。書いてみなきゃわからんけれども、書き出してみようかなと。そして、一気呵成に七百枚近くを書いたという感じですね。

――いま「宮本輝的ではない作品」と仰った通り、今作はこれまでの作風と雰囲気が異なり、重厚な純文学というよりはミステリーに近い良質なエンターテインメント小説といった趣があります。次の展開が気になりどんどん読み進めたくなる。なにしろ、主人公の青年が叔母の遺産、四十億円余りを相続することになるという、読者の心をぱっとつかむ始まりです。

 じつは行き当たりばったりというか、無計画なままに書き始めたんですよ。莫大な遺産をある日とつぜん手にするとなったら、人はなにをするだろうか。しかも自分以外に、遺産を正当に相続できる人がいるとしたら、その人を探すだろうか、と考えながら。もともと結末まで構想してから書くタイプではないので、出来上がってみると、自分でも思わぬミステリー風の作品になったなあと思います。遺産の額については、新聞連載時に二十二億円だったのを、単行本にする際に倍に変更しました。ケチケチせんと、一人の人生では使いきれへん大金にしようと。ちょっと非現実的な額ですね。


植物が教えてくれること

――物語の冒頭では、主人公の小畑弦矢が、叔母であるキクエの突然の死に直面し、彼女の終の住処となったランチョ・パロス・ヴァーデスを訪れます。そこで弁護士から遺産相続の件と、さらには六歳で病死したと聞いていた叔母の娘がスーパーで誘拐事件に遭い、行方不明であることを知らされます。ネタバレを避けるため、あらすじはここまでにしますが、魅力的な私立探偵が登場し、ハードボイルドの雰囲気が高まりますね。

 ウクライナ系アメリカ人のニコライ・ベルセロスキー(通称ニコ)ですね。とにかく覚えにくい名前をつけたかったのでウクライナ系にしたんですが、彼のイメージは、テラニアリゾートという高級ホテルのバーでたまたま見かけた人がもとになっています。真っ黒なポロシャツを着たものすごい大男の、憂愁のある佇まいに、一瞬ですが目を惹きつけられた。カウンター席でクロスワードパズルをやっていたんですよ。雰囲気あるでしょ? さあこのへんでそろそろ私立探偵を出そうというとき、彼の記憶がよみがえったんです。

――弦矢がまだ三十代前半であるのに対して、相棒となる探偵のニコは二十歳以上年上。その佇まいは、作中にも名前が登場する、チャンドラーのフィリップ・マーロウを彷彿させます。

 弦矢にとって、ニコは疑似的な父親のような存在かもしれません。自分では調べようもないことを調査してくれる、プロフェッショナルを必要としたときに出あうわけですし。でもニコがあんまりハードボイルドすぎて類型化しては困るので(笑)、そこは抑えましたけど。彼らに年齢差があるのは、弦矢とニコがろうたけた中年同士の腹の探り合いをするストーリーにはしたくなかったからです。ニコはもし弦矢が計略的な人間であると感じたら、関係を閉じていたと思います。彼は弦矢の青年っぽさの残る純朴さを信じて、仕事をするんです。彼らが信頼関係を形成できるかどうかは、物語の根幹にかかわってきます。

――今回の作品には、ニコだけではなくて、魅力的な人物が何人も登場します。たとえば、弦矢が滞在している叔母の家の庭を、前々から手入れしている庭師のダニーがその一人です。彼は日系人ですね。

 いままで僕は植物にそれほど関心を持ってきませんでしたが、たとえ小さな庭でもおばあさんが本当に丹精して、雑草を抜いたりして、大切に草花を育てた場所は、その植物たちも気持ちよく咲いていると感じるんです。適当に水だけやればいいやという家で育てられた花はやっぱり咲き方もどこかうれしそうではない。もちろん感覚的なものですが、通常は心があるとは思われていない草木や花にも、本当は心があるだろうと僕は思うんですよ。人間の言葉はわからなくとも、愛情をかければ応えてくれる。心と心は共鳴し合うだろうと。
 ダニーは雇い主であるキクエに、庭の世話を任されています。毎日毎日、植物の様子を気に掛けている。それはキクエの思いでもあります。植物への愛ですね。
 こういう感覚を、小説としてどう具現化するかは、なかなか難しいです。不可視のものですから。自分でも全部は説明できませんし、作家が説明することでもない。小説を読んだ人にそれぞれ感じてもらうことなのでね。しかし今回の小説のどこかに、そのことは暗示しておきたかったわけです。

――『草花たちの静かな誓い』というタイトルともつながります。

 直接的なタイトルではないんだけれども、読んでもらえば全部が腑に落ちるというか、そういうタイトルのつもりです。


長い時間のなかの一瞬

――キクエという、まさに植物的な名前を持つ弦矢の叔母ですが、彼女は弦矢に、明確に行方不明の娘の探索を依頼したわけでも、事情を知らせたわけでもありません。急死したのでその暇もなかったはずです。ただ、庭の草木を通じて、遠く未来の弦矢になにか託したのだと感じました。

 車椅子の理論物理学者のホーキングっているでしょう。誰かが書いていたけど、石原慎太郎さんはホーキングが日本で講演したときに聞きに行って、質問したらしいです。「宇宙でいう一瞬というのは、我々のこの地球時間で大体どのぐらいなのか」と。すると即座に「百年」と答えが返ってきたらしい。
 あるいはこんな話もあります。法華経の如来寿量品第十六に、釈尊が弟子たちに、「じつは私が悟りをひらいてから百千万億那由他阿僧祇劫の時が過ぎた」と言ったとある。
 それがどれくらいの長さかというと、百×千×万×億×那由他×阿僧祇で、もうじつにじつに長遠な時間です。それぐらい長くこの娑婆世界で説法をしていると釈尊が語り、弟子たちが呆然とするというエピソードです。
 つまり僕たちは、自分が生きている人生の時間が八十年として、それはまあまあ長いよね。でも宇宙からみれば、一瞬かもしれない。自分と切り離した時間感覚を、キクエが植物を通して得たというのは、そうだと思います。

――キクエのそうした、言語化されない願いを弦矢はきちんと受け取ります。彼の優しさというか、大金に目がくらんで私利私欲に走ったりしない「まっとうさ」も、この小説の読みどころのひとつですね。

 そうね、弦矢はちょっと間抜けやよね。アメリカでMBAまで取っているくせに(笑)。スマホの地図で近いわと判断して、半島の先まで歩いていって、遠すぎて足が痛くなったりしてね。賢くないこともないけど、ちょっと間抜け。そんなところのある子をどう書くか。これはけっこう面白かったです。
 でも善良な人間ですよ。だからニコもつきあってあげられる。こいつあほやなと思いつつ、父親的にかまってしまうんですね。
 この作品を連載していた新聞の通信社の人が、ニコと弦矢のアナザーストーリーを読みたいと言ってくれて、ああ、いいキャラクターになったんだなと思いました。

――弦矢は持ち前の善良さと愛嬌によって、ランチョ・パロス・ヴァーデスでさまざまな人間関係を築いていきます。半島の突端にあるカフェのオーナーとも仲良くなり、ある事業を立ち上げようかという話も出たりする。

 街の雰囲気が、とにかく自由なんです。裸に近い水着でタウンをうろうろする人もいたり、ものすごい体形の人がいたり。こういうところで孫たちがのびのび育っているのを見て、僕もお金があったらここで暮らすのにと思ったりしたぐらいです。
 弦矢も、この街で風に吹かれて、ジャカランダの花の咲いているのを見て、ポジティヴな思考を持ったと思います。まだ若いしね。相続した遺産をがめつくがっちり守ろうとは考えない。このポジティヴさが、さまざまな行動力につながっていると思いますね。

――これは物語の核なので、多くをお聞きできないのがもどかしいのですが、キクエというのはなかなか複雑な人生を歩んできた女性です。彼女の人生観は、ひじょうにさまざまなことを読者に考えさせますね。

 ひとつだけヒントめいたことを言うと、森鷗外の晩年の作品に『澁江抽斎』ってあるでしょう。実際に幕末に存在したお医者の澁江抽斎の伝記ですが、この小説は、どんな子供時代を過ごし、父親と母親はこういう人で、先生は誰でと、つまり澁江抽斎という人間にかかわった人たちの視点から延々と書かれているものです。それぞれの来歴や死に方など、履歴書を読んでいる気になります。途中で大抵飽きてくるけれど、読み終えて思うのは、たった一人の人間もたくさんの人たちとつながりがあるということです。本人すら知らない多くの人々の人生があって、いまの自分ができているんだと感じられる。
 ただ、あのランチョ・パロス・ヴァーデスにいると、その一人一人の来歴もどうでもよくなる瞬間があるのも確かなんです。人間もこうやってジャカランダみたいに生きているのではないか、それがどうしたという感覚です。
 キクエは自分の人生で悲しい体験をします。でも、もっと長遠な時間のなかで僕たちはその一瞬だけ生きているんだと考えれば、そこで起こっている人間のいろいろな汚いこと、悲しいこと、つらいこと、うまくいかないことも、相対化して考えられるようになるかもしれない。キクエはそれを植物を通して学んだのではないかと思います。それはきっと希望でもあったでしょうね。

――この作品は宮本さんの新しい側面が見える、エンターテインメント作品であると言いましたが、そう感じると同時に、やはり宮本作品がつねに形作っている「人間文学」であるとも思います。しみじみとキクエの人生に思いを馳せ、これからの弦矢を想像する楽しみが味わえます。

 ミステリーやクライムノベルを初めから書こうという気はなくて、結果的にそうなったので、そんなふうに読んでもらえたならよかったです。
 ほら、いい写真を見ると、その写真が切り取った一瞬の前と後の両方をつい想像しますよね。小説もそうでなければならないと僕は思っています。作品には書かれていない過去や周辺や未来が動いていくさまを読者に感じさせなきゃ、いい小説じゃないと思う。僕はそれをこの十年ぐらい自分に課してきました。この作品も、それを感じてもらえればと思います。


宮本輝さん宮本輝(みやもと・てる)
作家。1947年兵庫県生まれ。1977年「泥の河」で太宰治賞、78年「螢川」で芥川賞を受賞。87年『優駿』で吉川英治文学賞を受賞。2004年『約束の冬』で芸術選奨文部科学大臣賞文学部門を受賞。09年『骸骨ビルの庭』で司馬遼太郎賞を受賞。10年紫綬褒章受章。著書に「流転の海」シリーズ、『水のかたち』『田園発 港行き自転車』等多数。


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