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RENZABUROスペシャルエッセイ

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逆回りのお散歩

  • 紙の本

『逆回りのお散歩』三崎亜記

定価:1,400円(本体)+税 11月26日発売

三崎亜記さんの新刊『逆回りのお散歩』は、ある都市の市町村合併を巡って、インターネット上で進行する「戦争」と、平穏な日常の対比を描く。ネット上で喧伝される「陰謀説」が、徐々に現実のリアリティとなって現れてきて――。
刊行にあわせて、著者ご本人が本書について書いたエッセイを特別に全文公開! これを読めば、小説への理解が深まること、請け合いです。


刊行特別エッセイ
見えないことにされた戦争

●新たな「戦争」のかたち
 デビュー作『となり町戦争』は、「見えない戦争」を描いた小説だ。「確実にその場で起こっているはずなのに、銃弾が飛び交う戦場も、傷ついた兵士の姿も見えない戦争」である。湾岸戦争のゲームの画面のようで現実味のない「ピンポイント攻撃」や、「金だけを出した戦争」という「現実感の無さ」が、その背景にはあった。
 それから時が経ち、今度は「見えない戦争」とは真逆の、「見える戦争」について書いてみたいと思っていた。つまり、「そこで起こっているのを誰もが見ているのに、存在しない戦争」だ。
 とはいえ、果たしてそんな形の戦争が、私たちの身近で起こっているだろうか。これだけインターネットが普及し、「情報」というものが良くも悪くも過剰消費される社会において、起こった戦争を「起こらなかったこと」にすることができるだろうか? 執筆の機会はなかなか訪れなかった。

●フジテレビ抗議デモ
 そんな折、一つの出来事が起こった。一人の俳優の「つぶやき」に端を発し、テレビ局の「偏向した」放送姿勢に疑問符が突き付けられた。ネットを中心として巻き起こった批判は、テレビ局へのデモや不視聴運動、スポンサーへの不買運動などの形の抗議活動に発展していった。いわゆる、「フジテレビ抗議デモ」だ。
 一つの報道機関を取り囲んで、数千人の人々がデモ行進し、シュプレヒコールを繰り返したのだ。前代未聞で、特集すれば大きな注目を集めるだろう出来事だ。
 にもかかわらず、翌日のニュース・新聞・情報番組では、騒動は完全に黙殺されてしまった。デモを起こされた当事者であるフジテレビが報道したがらないのはまだわかる。だが、大手メディアがまるでスクラムを組んだかのように、このデモを「無かったこと」にしてしまったのだ。
「誰もいない山奥で、大木が轟音と共に倒れても、聞く者がいなければ、その音は存在しない」という哲学的な命題がある。存在が「在る」とは、我々が認識できてはじめて成り立つわけだ。「フジテレビ抗議デモ」は、本来情報を広く世間一般に広めるべき立場の報道機関を相手取った戦いだったがために、「見えているのに、見えないことにされてしまった戦争」という形になった。そんな風に、「起こったことを、起こらなかったことにする力」が、今回の小説の大きなテーマである。
 もちろんそのテーマは既に、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』において、強権的な国家権力による恣意的な情報改竄という形で描かれている。だが、今の我々が直面する問題は、その「起こらなかったことにする力」が「強権的」ではなく、むしろ「庶民の側」の顔をしており、いつのまにか横並びで情報が統制されてしまうことなのだ。それがシステマチックにというよりも、「暗黙の了解」で行われているであろう点が、いっそ『一九八四年』の世界よりも恐ろしい気がするのだ。
 今回の本は『逆回りのお散歩』とタイトルを付けた。それは作品中の重要な事件として、「お散歩デモ」があるからではあるが、もう一つの象徴的な意味合いがある。
「散歩」とは本来、個人の気分次第で、気の向くままに歩いているはずのものである。だがもしかして、知らないうちに誰かによってルートが決定され、管理されてしまっているとしたらどうだろうか?
 それは強制的に歩かされているよりも、自分の自由意志で行っていると信じ込まされている分だけ、問題の根が深い。いつもとは「逆回り」にまわってみて初めて、散歩を「させられていた」ことに気付くのではないだろうか? そんな意味が込められている。

●情報を取捨選択すること
 もう一つの大きなテーマ。それは、今の時代における「真実」を選び取ることの難しさだ。
「フジテレビ抗議デモ」は、インターネットという存在がなければ、ここまで大規模な行動になることはなかっただろう。かつて個人は、新聞やニュースなどで一方的に流される情報を「そういうものなのか」と受け入れざるを得なかった。報道に疑問を持ったとしても、知識人でもなければ、それに対して意見を表明する場というものは存在しなかったのだ。
 だが今はインターネット、とりわけ「ソーシャルネットワーク」の発達、普及によって、個人が特別な「情報収集能力」を持たずとも、情報収集も意見の表明もできるようになった。しかもリアルタイムで。
「フジテレビ抗議デモ」は、日本における既存大手マスコミと、ネットを駆使する個人との力関係を測る上で、ターニングポイントとなる出来事であったと、私は認識している。
 ただし、ネットは諸刃の剣でもある。入ってくる情報が格段に多くなったことで、我々は「選択眼」を養う必要が生じてきた。フェイクや誤情報、恣意的な誘導やステルスでの操作、偏向等々によって、ネットの情報は玉石混淆(ぎょくせきこんこう)と化している。その中から、自分の力で「真実」を読み取っていかなければならない。
「フジテレビ抗議デモ」で、いわゆる「ネトウヨ」が主張したことがどれだけ正しかったかは分からない。真実もあったし、極論やいいがかりもあったし、あからさまな誤情報もあっただろう。「真実」と言われるものも、「この視点から見れば確からしい」、というだけに過ぎず、しかも日々、その真実も移ろってゆく。

●「正しさ」の基準が移りゆく時代
「正しい方向」が分からないし、何が「正しい」かを判断する基準もない中で、人はどうやって自らの主義主張を戦わせるのか。どうやって自分の「選択」を選び取るのか。それが二つ目のテーマだ。
「何も選ばない」ことが結果的に何かを「選ばされている」ことであり、「踊らされまい」とすることが、別の形で「踊らされている」のかもしれない。万人にとっての100パーセントの「真実」なるものが存在しない以上、自らの信じる「より確からしいもの」を真実として進むより他はない。
 作品中の聡美の、真実が見えないまま選び取った「選択」は、何が「ベスト」とも言えない社会状況の中で、それでもどちらかに進まなければならない我々自身の選択でもある。
 もちろん、ネットを駆使する個人が力を得ることは、新たな問題を生じさせている。過激なネット世論によって個人情報を晒(さら)され、日常を侵害される被害者は後を絶たない。
 だが一方で、「いじめ自殺問題」も「生活保護不正受給問題」も、ネットでの盛り上がりがなければ、ここまで大きく社会問題化させることはできなかったであろうこともまた事実だ。
 手放しで賞賛するつもりはない。ただ、今後もネットの中の「戦い」を見守っていきたいと思っている。「見えない束縛」に立ち向かう、「見えない誰か」の戦いを。
 いつかまた、その物語を書くこともあるだろう。
(「青春と読書」12月号より転載)

みさき・あき●作家。1970年福岡県生まれ。2004年に『となり町戦争』で第17回 小説すばる新人賞を受賞しデビュー。著書に『バスジャック』『失われた町』 『鼓笛隊の襲来』『廃墟建築士』『海に沈んだ町』等。


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