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RENZABUROスペシャルエッセイ

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朱鳥の陵

  • 紙の本

『朱鳥の陵』坂東眞砂子

定価:1,800円(本体)+税 3月26日発売

原発事故─平等化された不幸

坂東眞砂子

 飛鳥時代の奈良を舞台とした『朱鳥の陵』という小説を書いた。古代の風俗、時代背景などを把握し、再現するのに苦労したが、まるで別世界を再生させるようで、とてもわくわくする作業だった。

 古代日本は、現代日本とはまったく違っている。社会構造から、建物や暮らしぶり、服装だけでなく、人の意識も、時間に対する概念も異なっている。なにより、一般庶民と、豪族や天皇の一族たちとの間の隔たりは実に大きかったと思う。

 京から離れた地方に住み、漁労や農耕に携わる庶民は、租庸調の枷に苦しみつつも、自給自足の生活を送っていた。彼らにとって、地方の豪族は雲の上の人であっただろうし、ましてや生産に携わることなく、庶民の納める諸税に依って京に暮らす中央豪族は、さらに遠い存在。天皇に至っては、京の者ですら姿を見ることも、声を聴くこともなく、想像の世界でしか存在しない。神の血を引いている、といわれれば、きっとそうだろうと頷くほどに彼方にあったはずだ。それでも、折々に天皇の名において通達されてくるお触れは、現実的な効力を発揮する。その存在感と、存在感のなさの具合は、神々の在り方と似たようなものだっただろう。

 このような神々と天皇像の兼ね合いの中から、日本古来の神話に、天皇家の系譜を織りこんだ『古事記』や『日本書紀』が生まれたのだと思う。これを編纂した人々も、それを伝え聞くことになった人々も、天皇もまた八百万の神々の一人であるというような意識を抱いたことだろう。一般庶民と、神々とは同じ地平線上に生きていた。庶民の中には、流浪の身となった者もいたし、律令制度から離れたところで、土蜘蛛などと呼ばれ、隠れて存在していた者たちもいた。京には、神々と同様、姿を現すことはないが、怒りに触れれば恐ろしい天皇がいた。天皇の周囲では、高御坐を巡っての身内同士の血で血を洗う権力争いが渦巻いていた。古代においては、人々の意識も価値観も運命も、別宇宙に住むほどに離れていた。人生に多様性があったのだ。

 私にとっての小説とは、さまざまの人の意識と運命が交錯する模様を文字で表すことだ。この意味で、古代は、大胆でコントラストの強い、印象的な交叉模様を描くことのできる舞台である。

 一方、現代日本を舞台にすると、たいしてコントラストの強い交叉模様は生まれはしない。現代日本人の人生なんて五十歩百歩、多様性はさほどないからだ。勢い、人の外的な運命ではなく、内的宇宙の差、心理の綾を描くことに重点を置かざるをえなくなる。

 しかし、それは、血湧き肉躍る「物語」からは離れている。そこで現実味の乏しい、突拍子もないドタバタ話が出回るようになる。いずれにしろ、現代日本という小説舞台は、私にはつまらなく映る。

 もっとも、人々の運命の均一化とは、裏返せば、民主主義の発展でもあった。

 民主主義は、明治維新以降、西洋から日本に紹介されて、徐々に浸透していった。それは、庶民の意識においては八百万の神々の一人であった天皇が、政治的意図のもとに個別化され、国内での一神教的主体として据えられるようになったのと時を同じくする。

 西洋の民主主義とは、絶対神の前において、人は平等である、という意識から発しているのではないかと私は思う。この意識を底流にして、西洋の近代国家は生まれてきた。だから、日本においての民主主義の浸透も、近代国家誕生も、天皇像に仮託しての一神教的意識の導入が不可欠であったのかもしれない。

 いずれにしろ、民主主義の受け入れと共に、身分制度は揺らぎ、人々の運命の均一化が始まった。それは、明治以降、人間の内面を詳述する私小説の隆盛をもたらしもした。しかし、日本の民主主義化を徹底させたのは、敗戦後のアメリカ進駐軍の民主化政策だった。天皇は人間となり、財閥は解体され、平等意識は小学生の頃から日本人の頭に叩きこまれるようになり、「一億総中流」といわれる時代を迎えた。ここに至れば、個人の運命の均一化も極まれり、といえるだろう。

 もっとも近年、インターネットの普及によって、この流れも変化をきたしている。情報交換によって、人々の意識の中での国境線は薄れつつある。ベルリンの壁崩壊、ソ連の解体、中国の路線転換は、それらを如実に示してきた。それは、近代国家を支える一神教的集約意識(いってみれば愛国心)の弱体化であり、数多くの小さき神々の権威奪回でもある。

 アメリカン・ドリーム的サクセス・ストーリーをIT関連の起業家たちが実現するようになり、彼らは現代の英雄とも、神々ともみなされている。神々の誕生は、階層社会を生みだす。今、日本においても新たな下層社会が発生しているともいわれている。武力ではなく情報力、権力ではなく経済力を土台にした階級差が生まれ、小さな神々を同心円の中心とする世界での棲み分けによって、意識の多様化が生じるだろうという意見もある。

 しかし、それは、八百万の神々が同じ地平線上にいた過去とは決定的に違う。情報の発達によって、今では、どんな億万長者でもスターでも、その暮らしぶりや、顔を知ることができる。神とも人ともつかない、雲の上の人々の神秘は消えたのだ。情報が魔術を駆逐し、人々はもはや力強い神話を生みだすことはできなくなった。

 インターネットの発達は、人類のさまざまな可能性を夢想させるが、これまで近代世界が、民主主義の旗印の許で一丸となって築きあげてきた運命の均一化は、そう簡単に駆逐されるものではない。

 それをまざまざと見せつけたものが、昨年三月に起きた福島第一原子力発電所の事故だった。自由、平等、機会均等を土台とするアメリカ式サクセス・ストーリーは、幸運の平等化であったが、原発事故は、不運もまた平等化されるのだ、という事実を顕かにした。放射能汚染の被害は、その地域に住んでいた人々ばかりではなく、雨風、海流、食物連鎖、汚染された瓦礫や物資、食糧の流通などによって、日本列島全域に及びつつある。

 原発に反対だった人も、推進に賛成だった人も、みな、おしなべてその影響下に巻きこまれた。原子力は、個人の意志なぞ無視して、その被害を均一に「平等」に被らせる。広島、長崎の原爆が、一瞬にして、それまで各々の運命を生きていた何十万もの人々を、死と被爆ということで「平等」化したように。

 ここに核使用の脅威がある。個人性の消滅だ。ひとたび事故が起これば、巨大なブルドーザーのように、個人の運命を死と衰退の方向に均してしまう。残るのは、ぺちゃんこに均一化された、草木も生えない地面だけだ。

 これまでにも、世界的には核の脅威は存在した。日本は、原爆投下によって被爆した唯一の国であったわけだし、その後、第五福竜丸の被爆、東海村の臨界事故も続いて起きている。しかし、原爆投下の事実は、敗戦を境にまるでリセットボタンを押されたかのように、一般の日本人の意識から滑り落ち、その後の二件は犠牲者の数が限られていただけに、被害実態はさほど知られることなく片付けられてきた。

 しかし、今回の事故は、その規模の大きさによって無数の人々を被爆させ、その事実をメディアやインターネットによって、日本全体に知らしめた。

 私たちは、今なお福島第一原発事故の被害の実態をつかみきれていないし、その実感を得てもいない。多くの人は、まだ事故以前の意識を引きずっている。しかし、これから何十年もかけて、その被害は土壌や空気の放射能汚染だけでなく、無意識、意識を含めた精神的なものにまで及んでいることに気づかされるのではないか。

 原発事故のもたらした最大の精神的被害は、日本人の土地に対する信頼の消失ではないかと私は考えている。原発事故の第一報を耳にしたとたんに、私の頭に浮かんだのは、土地が汚された、という怒りだった。私は、それまで、水のある土地さえあれば、何があっても生きていける、と信じていた。だから、そんな土地を買い求め、経済的に困窮したら、自給自足で生きていこうと決めていた。

 この将来に対する見通しが、見事に覆された。土地も、もはや信頼に価しない。放射性物質によって水も土も汚染されたら、自給自足なんてとんでもない。私の買った土地は高知だが、今後、日本列島にある多くの原発のどこかが事故を起こせば、福島周辺で起きたことは、私の土地でも起こりうるのだ。

 土地に対する信頼は、私だけでなく、ほとんどの日本人が共有していたはずである。農耕漁労によって何十世紀も生きてきた日本人にとって、土地は生きていく寄る辺であり、最後の砦だった。だから、人々は「一所懸命」に土地を護り、耕しつづけてきた。都会のマンション暮らしのサラリーマンにとっても、いつかは庭つきの一戸建てに住むことは夢であった。さらに土地は、銀行貯蓄より、よほど安心できる財産でもあった。土地への信頼を担保にして、金も回っていたといえる。

 このような土地意識を基盤にして、日本人は、価値観や道徳観、人生観を築いてきた。原発事故は、この日本人の精神的基盤を崩壊させたのだ。

 経済への信頼は、バブルによって失われた。家族の絆は、とっくの昔に千切れそうになっている。詐欺の横行する世の中だけに、人の心も信頼できない。時々刻々と流れてくる情報は膨大すぎて、どこをどうつかまえていいかわからない。政治は、もとから「お上」が勝手にやっていることであり、私たちを助けてくれるなんて、最初から期待してはいない。最後の砦であったはずの土地への信頼すら失われた。いったい何を拠り所として生きていけばいいのか。

 福島の再生だ、希望だ、がんばれ。震災後、さまざまな励ましの言葉が氾濫しているが、その言葉に力は感じられない。私たちの心を支えてくれるはずのエネルギーの源泉が失われてしまっているからだろう。

 こんな状況の中で残されたエネルギー源とは、もはや怒りしかないのではないか。不運の平等化に対する怒り、土地への信頼を奪ったものに対する怒り、このような事態を引き起こしてしまった世界の仕組みに対する怒り。怒りを、暴力ではなく、エネルギーに変えることで、前に進むしかない。その動きは、混乱も生みだすだろうが、運命均一化の壁を打ち破り、多様化の道もまた切り拓くかもしれない。それは、古代とはまた違った形の多様性であり、神話なき世界の新たなる物語の誕生に通じる道となるだろう。

ばんどう・まさこ●作家。高知県生まれ。著書に『桜雨』(島清恋愛文学賞)『山妣』(直木賞)『屍の聲』『ラ・ヴィタ・イタリアーナ』『曼荼羅道』(柴田錬三郎賞) 『快楽の封筒』『花の埋葬 24の夢想曲』『傀儡』等。


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