RENZABURO

試し読み

 青い日差しは肌を灼き、君の瞳も染め上げて、夜も昼にも滑らかな光沢を放つ。静かに呼吸するその肌は、息をのむほど美しく、私は触れることすらできなくて、自らの指をもてあます。

 ねえ、君は言ったね。私たちは永遠には生きられない、と。

 私はこう返したよね。その通り、私たちは永遠には若くはない、と。

 同じことを言ってるつもりだったのに、全然違う意味だったと今なら分かる。

 月日は経ってもなお色鮮やかに脳裡に焼きつく君の澄んだ笑い声、密やかな視線、腰の窪みに宿る影。

 むしろ一体いつ忘れられる? 今現在こそが思い出のよう。私はまだ君と過ごした短すぎるひとときに、いつまでも瓶詰めされたままだ。

 退屈などしていなかった。私は高校の時の一つ上の先輩、丸山颯と社会人になってから付き合い始めて二年経ち、二十五歳のいまお盆休みに秋田へ旅行の予定だった。

 湯沢市の巨大ホテルはもとは颯の父親が勤める会社所有のリゾートマンションで、保養所として社員に貸し出していたらしい。しかし今はホテルの経営も不振で、スキーの時季以外はがら空きなのだという。ハイシーズンでも何泊でもできるぞ、社割もきくし、海も近いし、という颯の言葉に魅せられて、同棲している大塚のマンションから湯沢市に向けて約六時間の車の旅に出発したのだった。

 たとえ高速に乗っていても私は車の窓を開けるのが好きだ。とはいえ顔のすべてに風がかかるほど全開にすると、颯が冷房がきかないと言って怒るので、上から十センチほどだけ窓を下ろし、後ろへ向かって強く吹く、排気ガスを多分に含んだ爆風を前髪にあてた。

「颯はさ、このスカイホテル湯沢ってとこに、何回ぐらい行ったことがあるの」

「子どものころは数えきれないくらい。うちの家族が一室借りていたころには、夏休みも冬休みも必ず行ってたな。特に親父がスキー好きだったから、冬は必須」

 運転中の颯が真後ろの後部座席に座る私に聞こえるよう、やや大きめの声で話す。暑さのせいで捲り上げている、白いTシャツの腕の露出が私には眩しかった。力の入っていない運転中でさえ腕の筋肉がしっかり盛り上がって、そこから続く肩の隆起も、太く逞しい首に一ツある黒子も、短く刈り込んだ黒々した剛い毛髪も、すべて後ろから眺める私の目に快かった。

「で、夏は海水浴できるんでしょ。人気出そうだけどね、なんで廃れたのかな、いっぱいお客来そうなのに」

「あのさ、海に関しては言わなきゃいけないことがある」

 一旦言葉を止めると颯は気まずそうに、

「お前オーシャンビューとか期待してない?」

「そこまでは思ってないよ、海は部屋から見えるほどは近くないでしょ。ホテルのホームページにも部屋からの眺めについては山のことしか書いてなかったしさ。でも車で小一時間の距離に日荘マリーナって海水浴場があるんでしょ? そこ行けばいい」

「いや、あれはちょっとホテル側が盛ってる。もともとスキー客をターゲットに作られたホテルだから、だいぶ山を登った場所に建ってるんだよ。その分景色は良い、スカイホテルってくらいだからな、空と山は満喫できる。でもな、海は山から、車で下らなきゃいけないんだけど、すごい悪路で対向車とすれ違えないほど狭いんだ。霧も出やすいし夜は真っ暗だし、バスも通ってない。子どものころ一度家族で海岸目指したことがあったけど、親父の運転だと死ぬかと思ったよ、カーブも多いしな。もちろん俺の運転なら山なんか楽勝で下れるけど、毎日は無理かも。特に二日酔いの日は絶対に吐く自信ある」

「本気で言ってんの!? じゃあ四泊もして、一体何して遊ぶのよ」

「それは、温泉とか、テニスとか。あ、卓球場もあるし子どものころは家族と部屋でトランプもしたなぁ」

「私たち二人だけでトランプやって何が楽しいの? まぁいいや、とりあえず人の来ない理由は分かった」

 私はため息と共にシートの背にもたれかかった。せっかく買ったラルフローレンのブラックのワンピース水着、今季は一度くらいしか着られないかもしれない。ビキニタイプが主流のなか、ワンピースタイプを何日も懸命に探して、ようやく素敵なのを見つけられたのに。

「じゃあプールで泳ごうよ。一応リゾートホテルのくくりなんだから、プールぐらいあるでしょ」

「プールも施設としては屋外にも屋内にも立派なのがあるんだけど、なにしろ客が来ないから、俺が中学生くらいのときから水を張らなくなったんじゃないかな」

「なにそれ。まったくやる気を感じない」

「やる気とかの問題じゃなくて、経営難のせいだ」

 隣の追い越し車線を走るミニバンが軽すぎる車体のせいで道路を滑ってゆくのを止められないかのようなすごいスピードで私たちの車を抜き、窓からの風圧で思わず目をつぶった。

「びっくりした! 飛ばし過ぎでしょ、あれ」

 颯は少し肩をすくめただけで、文句を言うわけでも、自分が速度を上げるでもない。

「あんなに急いでどこに行くんだろうね」

「仕事で遅刻でもしそうなんじゃないか。きっと営業車だろ、あれ」

 車の運転だけでなく日常生活においても、彼は逞しい身体つきをしているからちょっと凄めばおそらく大抵の場所で幅を利かすことができるはずだが、“危険にはまず近寄らないのが大切だ。どうしても遭遇してしまったときは出来るだけ逃げるか穏便に解決しろ”と常に私にアドバイスするほど、自分自身も余計な争いごとに巻き込まれることを徹底的に避けていた。しかしどうしても避けられないときが来たらこの人ほど頼れる人はいないだろうなというのを、私はいままでの付き合った歳月のなかでよく知っている。そういう所も、本当に好きだ。

 私がレモンキャンディの袋を開けて、黄色い中身を彼の顔の側へ持ってゆくと、彼は舌を伸ばして飴を受け取り、おいしそうに舐めた。

 颯が別の人と付き合って、そしてまた私も別の人と付き合っているときも、高校のときの憧れの先輩として、変わらず彼は私の胸のなかに居座ったままだった。大学卒業後に開かれた久しぶりの高校バスケ部の飲み会で、彼が二次会でも三次会でも私の隣に座り続けたとき、私はどれだけ嬉しかっただろう。

 二次会の会場だった居酒屋の座敷の砂壁にもたれて、ビールのグラスを持って酔った彼は冗談ぽく私に恋人がいるかどうか訊き、私が最近別れたところだと話すと、自分もそうだと答えた。そのとき彼の顔から首までがアルコールのせいで赤く染まっていたが、後日彼はあのとき自分はまったく酔っぱらってなかったと言った。三次会のジャズカフェの二階にあるテラス席では彼はもう私の手を握っていて、利き手ではない左手で瓶のコロナを直飲みしていた。

 ジャズの音楽と客のしゃべり声の混じった店の喧騒と、埃っぽい室外機の稼働音と、外の四車線道路を走る車の走行音が耳を覆い、ほとんど話ができなかったが、颯の骨太のがっしりした手が時折力を込めて私の手を握る度に、私はどんな言葉を聞くよりも深い恋へ落ちていった。同じテーブルで顔を上気させて大声でしゃべり、笑い合うかつての部活仲間たちはその表情も関係性も当時とまったく変わっていなくて、あのころはほとんど口もきけず遠くから盗み見るだけしかできなかった丸山先輩と今は手をつないでいることが、信じられず夢のようだった。

 山を登った末に眼前に現れたホテルは想像よりも大きな作りで、深い山林に囲まれて唐突にそびえ立っていた。十階建てくらいの簡素な外見をした建物で元は白いはずだが薄汚れていた。颯の説明によれば冬にはこのホテルの裏手にあるスキー場に雪が降り積もり、チェックイン後にすぐに滑れる距離の近さが魅力らしいが、あいにく今は夏だから一面の銀世界も頭で想像するしかない。駐車場は都会ではまずあり得ないほど広大な割に、停まっている車はまばらだ。

 人気の無い天井の高いロビーでチェックインを済ませ、六階の客室に上がると、確かに景色は良くて渓谷と薄い雲のたなびく青空を一望できた。客室はホテルというより広めのファミリーマンションの一室そのもので、トイレもバスルームもキッチンも揃い、リビングとベッドルーム、畳部屋まであった。颯が子どものころにオープンしたというから、もう二十年以上経過していることになり、壁は黄ばみ内装のセンスも懐かしかったが、広々使えて、これなら長く室内に居てものんびりできそうだ。

 私と颯は座り皺の寄った大きな臙脂のレザー張りのソファにくっついて寝ころび、一寝入りしてから備え付けの浴衣を着て大浴場へ向かった。陽は暮れかけて廊下の窓の向こうは暗がりに沈んだ山の木々が迫力を増し、省エネ対策のためか長く続く廊下は光源が少なく薄暗い。地下へ降りるとさらに暗く、自動販売機の明かりにさえほっとする状況で颯にしがみつきながら歩いていると、突然、突き当たりに座っている人影がぼんやりと見えた。

「なにあれ? 展示の蝋人形とかじゃないよね、客かな。でも、だとしたらなんであんなとこ座ってるの。恐いんだけど」

 颯に囁いたものの、彼が何も答えずに歩くので、腕にしがみついたまま引き摺られていったら、人影は小太りの中年男性で、ポロシャツに赤い腕章をつけていた。

「温泉はこちらです、どうぞ」

 男性はにこやかに座ったまま廊下の奥を手で示し、私たちは会釈して通り過ぎる。

「あの係員さん、なんのためにあの場所にいるんだろ。案内板出てるからあっちが温泉てことくらい分かるよね」

「さあ、退職後の再就職なんじゃないの」

 颯の父親の勤め先は有名な企業だ。見せしめの左遷でなければ良いのだが。颯はのんきに七時に休憩スペースで待ちあわせなー、などと言っている。そのあと広い宴会場で御膳を食べたときも、朝になってレストランのバイキングに行ったときも、ここに人が必要か? という謎の配置で案内係が出没して、全員が中高年で結構暇そうだったから、私は彼らの雇用形態が気になった。初めは左遷かと思ったが、顔つきがのんびりとして明るいので、颯の言う通り退職後の再就職とかで、自然のなかでゆっくり羽を伸ばしている優雅な身分なのかもしれない。スカイホテル湯沢は全室客室になった今でも、ほのかに社員の保養に使われていたころの名残りがあって、ロビーに浴衣姿の社員たちの集合写真が年代ごとに飾ってあったり、卓球場のラケットにはひらがなで男の子の名前が書いてあったりした。保養所というものに縁なく過ごしてきた私にとって、公と私が入り混じった不思議な空間だった。

 二日目は颯の決死の山中ドライブで海に着いたあと、たくさんの海水浴客に混じって泳ぎ、三時半にはまたホテルに戻ってきた。駐車場に昨日まで無かった車が何台か停まり、ロビーでは数グループが受付の列に並んでいる。週末をこちらで過ごす予定の客たちがチェックインしているのだろう。ホテルのにぎやかな雰囲気に私は少しほっとした。リゾートホテルがあんまり寂れていると活気が無さ過ぎてこちらも張りあいが無い。朝のバイキングでも思ったよりも客がいて、少しもすれ違わないのに結構泊まってたんだと驚いたけど、ホテルが広すぎるから誰も泊まっていないと錯覚しただけだったのだろう。

 山道の急なカーブに翻弄されて車酔いし、ロビーのソファに座ってでんぐり返りしそうな胃を休めていたら、颯が急に受付の方へ走って行き、チェックインの順番待ちをしていた一人の男性に声をかけた。女性を連れているその男性は、親しげに話しかけてきた颯をすぐさま認識したようで、打ち解けた笑顔を見せた。彼らはスタイルの良い洗練されたカップルで、家族連れが目につくこのホテルでは浮いてるなと、ソファに座ったまま、さっきまで見るともなく見ていた人たちだった。

 遠いから会話は聞こえないが、颯と男性は楽しそうに笑い、肩を叩き合っている。女性の方は颯とは知り合いではないようで、微動だにせずサングラス越しに二人を眺めている。私が挨拶しようと腰を上げたのと、颯がこっちに来いと手招きのジェスチュアをしたのが同時だった。

「逢衣、偶然すごい懐かしい奴に会えちゃったよ。こいつ中西琢磨、俺たち小学生の頃、よくこのホテルで夏休みや冬休み、一緒に遊んだんだ」

「じゃあ幼なじみってこと?」

 顔の輪郭によく似合った黒いフレームの眼鏡をかけた琢磨は、柔和な笑顔で私の言葉に頷いた。

「そう言えると思います。僕たちの父親は同じ会社に勤めてて親同士が仲好くて、このホテルが保養所だった中学生の時期まで年一回は必ず会ってたんです」

「ほんと久しぶりだな琢磨、もちろん背とか全然違うけど雰囲気はまったく変わってなかったから、すぐ分かったよ」

「僕もお前が近づいてきた途端に分かったよ、大股でのしのし歩くの、子どもの頃から変わってないな! ホテルまでの山道を運転してくる間、このホテルの記憶と一緒にお前のことも思い出してたんだ。颯って今はどうしてるのかなーと思ってたら、まさか実際に会うとはね」

「すごい偶然だな。やっぱ琢磨もこの時期になると自然に湯沢来ちゃうよなー」

「うん、もう刷り込みみたいなものだね。夏も冬もとりあえず湯沢保養所行かなきゃって思うもん」

「いまはスカイホテル湯沢だもんな、時の流れを感じるわ」

 琢磨は幅広の二重とふっくらとした下瞼が印象的な人で、色は私よりも白く、一見優男風だったが、肩幅はがっしりして長身で手も大きい。パーマなのかゆるくソフトにカールした髪型もよく似合っていて、女性に人気が高いのは間違いなさそうだった。

 私は颯の陰に少し隠れながら、彼女然とした微笑みを作って挨拶をした。

「颯の彼女の、南里逢衣です。私たち、あと三泊するので、良かったら一緒に遊んでくださいね」

「ありがとうございます、ぜひ! 僕らもこれから三泊するのでよろしくお願いします」

 琢磨は感じの良い爽やかな人だったが、連れの女性はちょっと頭を下げただけでサングラスすら取ろうとしなかった。さくらんぼ色の形の良い唇には愛想笑いさえ浮かんでいない。私は彼女を見なかったことにして笑顔のまま視線をスライドさせ、琢磨に再び向き直った。琢磨の顔も若干強張っている。場を支配している緊張感に一人だけ気づかない颯が、

「琢磨の彼女? よろしくね! 丸山颯です。夜とか一緒に飲みませんか、俺たちの部屋に集合して。酒は車に積めるだけ積んで、山ほど持ってきてるから!」

 と能天気に挨拶しても、女性は首を少し傾けただけで名前さえ名乗らなかった。颯が特に気にしない様子で再び琢磨と話し始めると、彼女が私に視線を当て上から下まで隅々をチェックしているのが、細かな顎の動きでサングラス越しでも伝わってきた。明らかに見られているのにサングラスのせいで彼女の眼球の動きがこちらには分からない。一方的な視線を浴びるのは居心地が悪かった。

「また部屋でゆっくり話せたらいいね。颯、電話番号変わってない? あとで連絡するよ」

 明らかに連れを気遣っている様子で琢磨は急いでそう言うと、彼女の肩をそっと抱いてチェックインの列に並び直し、私たちは手を振ってその場を離れた。エレベーターを待っている間、そっと振り返ると、疲れてるのに立ち話しちゃってごめん、とでも謝っているのか、琢磨は連れの子にしきりに話しかけている。

「ねえ、一緒に遊ぼうとか誘っちゃったの、まずかったかな」

 部屋に向かう途中、私は小声で颯に囁いた。

「なんで? 喜んでたじゃん」

「颯の友達の方はね。でもあの女の人の方は明らかに嫌がってたでしょ、一言も喋らなかったじゃない。あれが普通なら、無愛想にも程があるし」

「いきなり話しかけられて、びっくりしたんじゃね? 大丈夫だよ、迷惑なら何かしら理由つけて断ってくるか、そもそも連絡してこないだろうし。そこまで気を回さなくても、あっちも好きなようにやるよ。あと琢磨は温和で性格良いし、そこまで変な女とは付き合わねえと思う」

「分かってないな、性格良い人ほど、いかついのに捕まるんだよ」

 気まずくなるなら一緒に飲みたくないなというのが、自分から誘っておいてなんだが、いまの私の正直な気持ちだった。サングラス女の威圧感は半端なく、男同士は昔からの友達だから楽しいかもしれないけど、初対面の私とあの人がどんな会話を展開するのか想像もつかない。気を遣うくらいなら颯と二人で過ごした方が良い。さっきの会話が社交辞令として終わるよう願った。

 私は人見知りのタイプではないから、大概の女の人となら初対面でも平気なのだが、あの女性は厄介そうだ。美人に多い、その場にいる全員がちやほやしないと臍を曲げてしまう根っからのお姫様体質で、褒めそやさない限りは会話が成立しないタイプかもしれない。でもプライド高そうだからそもそも彼氏以外と一緒に遊ぶとか拒否しそうでもあるな、などと考えていたのに、夜、結局琢磨から電話が来て、二人は私と颯の部屋までやって来た。

 私と颯は温泉に入った後なので浴衣を着ていたのに対して、二人はロビーで会ったときと同じ服装のままで、女の人はさすがにサングラスは外していた。

 彼女の顔立ちを見ると、まあ高圧的な態度もしょうがない、とある程度はあきらめざるを得なかった。私が今までの人生で初めて会うレベルで整っている。大きな猫目はふさふさのまつ毛に縁取られ、唇は口角が薄く吊り上がっている。可憐な顔立ちなのに、弓なりの眉と野心的なきつい眼光のせいで、隠しきれない闘志が垣間見えた。可愛いからと油断していたら、不意を突いて飛び蹴りをかましてきそうな気迫がある。

 私は、いらっしゃいとにこやかに中へ招き入れたが胸はざわついていた。まず手を洗いたいと二人が洗面所に入ると、颯も呆気に取られて小声で囁いた。

「琢磨の彼女、すごい美人だったんだな。ていうかあの人、俺どっかで見たことある気するんだけど」

 私もそう思っていた。彼女の顔は記憶にあり、名前は覚えていないがテレビで見かけたことがある。とすれば有名人なので、普通なら嬉しいが、相手が気難しいなら話は別だ。ストレスフルな職場から解放されて束の間の休暇に、こんなに気を遣わなければいけない事態が待っていたとは。

 琢磨と彼女が洗面所から戻ってきた。

「ごめんごめん、さっきの夕食で甘海老を食べてさ、殻を剥いてまだ手がべとついてたから、洗わせてもらったよ。この子は僕の彼女の荘田彩夏。ロビーではちゃんと紹介できなくてごめん」

「サイカ! やっぱりそうだ、週刊誌の表紙で見たことがあるよ。最近はドラマでも見たし、高校生の役やってたよね、なんてドラマかは忘れたけど」

「颯、失礼だよ」

 私は彼の浴衣の袖を引っ張った。プライドの高い人は地雷がどこにあるか分からない。

「荘田彩夏です。さっきはちゃんと挨拶できなくてごめんなさい」

 意外にも彼女は、今回は頭を下げて挨拶した。常識が無いわけじゃないんだと私はほっとした。

「そう、彩夏は芸能活動してるんだ。去年までは二人でどこへ行っても全然大丈夫だったんだけど、彩夏がドラマに出だしてからは結構人目につくようになって、気を付けなくちゃいけなくなって。僕たち内緒で付き合ってるから」

「じゃあお忍び旅行ってことか?」

「そう、二人で出掛けられたこと自体が久しぶりなんだ」

 琢磨は頬を緩ませてうれしそうに微笑み、その表情で彼がこの旅行を楽しみにしていたことが伝わってきた。彼の笑顔は魅力的で、下瞼の膨らみがよりくっきりと際立って、人懐こい印象になり、大きな瞳はさらに優しげに潤み、彩夏と並んでも全く不釣り合いではない。

「今日だって彩夏のマンションに記者がいて張られてる可能性もあるから、僕たち一緒に出発することもできなくて、高速のインターの近くで待ち合わせして落ち合ったんだ。人目につくのが恐くて、ロビーではろくに挨拶もできなくて申し訳なかった。お忍びで来てるのにチェックインのときに周りにばれたら、とんぼ返りするはめになる」

「そりゃばれないようにするのが最優先だよな。まあ座って飲みながら、話の続きをゆっくり聞かせてくれ」

 私たちはリビングのソファに座り、各々好きな種類の酒を注ぎ乾杯した。緊張気味の私はすぐに手元のクッションを引き寄せて抱いた。

「琢磨はさ、芸能関係の仕事にでもついたわけ? じゃないとお二人の接点が思いつかないよ」

「いや僕は眼科のクリニックに勤めてる。併設してるコンタクトレンズショップでお客さんの装着の助けなんかもしてるんだけど、二年前その勤め先に彩夏がコンタクトレンズを買いに来たのが出会いのきっかけ。当時の彩夏はまだデビューしてないレッスン生で、僕は彼女のことは当然知らなくて、付き合い始めてから知ったんだ」

「コンタクトレンズを売ってるのに、琢磨さんは眼鏡なんですね」

 私がしゃべると、彩夏の視線が矢のように私の顔に突き刺さった。琢磨を苗字ではなく名前で呼んだのは、単に紹介された苗字を忘れてしまったせいだけど、どうやら彼女の気に障ったみたいだ。

「これは伊達眼鏡なんだよ、度が入ってなくてコンタクトをつけてる。一応僕も変装しなきゃいけないかなと思ってかけたんだけど、似合わないよね」

「いえ、全然似合ってるんですが、そうなんですね、眼科で出会って付き合うまでいくって、よっぽど二人の相性が良かったっていうか、惹き合うものがあったんだろうなぁ。とってもお似合いだし! 私も颯も二人のお付き合いのことは、絶対外に漏らしませんから、心配しないでくださいね!」

 琢磨は笑顔でありがとう、と返してくれたが、彩夏は横目で冷淡な一瞥を投げて寄越しただけで、ほとんど反応もない。

 くそー、こんな人でなければ、私も芸能人と飲めるって、はしゃいだのになぁ。

 私はおつまみを用意するのを口実にリビングからキッチンへ逃げ出し、深いため息をついた。彼女が高校生役で出ているドラマは私も颯と共に流し見していたが、笑顔がはじける元気でキュートな役柄で、今目の前にいる彼女とは雲泥の差があった。同じ人間と思えない。それは演技力が凄いというより、強烈な猫かぶりに騙されていただけの気がする。

 ビールワイン日本酒ウィスキーチューハイ、酒盛りが始まった。話すうちに女子二人は二十五歳、男子二人はその一つ上だと判明した。山奥のホテルでは気軽に酒屋に行けないし、売店に置いてあるものは割高だから、今回多すぎるほどのお酒を持ってきたのは正解だ。雨など降ってすごく退屈したときに備えて二人では絶対に飲み切れないだろうという量を車に積んできたけど、四人ならちょうど良い。颯も琢磨も飲むピッチが速くて私はせっせとお酒を注ぐのに忙しかった。彼らは幼少時代の昔話で盛り上がり、お互いの家族の近況を訊き合ったりして、心から再会を喜んでいる。二人の会話に頷きながら、私は酒を氷と水で薄めたり、おつまみを皿にあけたりしていたが、その間ずっと左頬に隣にいる彩夏からの視線を感じていた。

 颯と琢磨が酔い醒ましに連れだってベランダに出たとき、私はさすがに絶え間ない視線を無視することができず、スパークリングワインを片手にこちらを静かに見つめている彼女と、真正面から目を合わせた。

「あの、どこかでお会いしたことありましたっけ?」

 丁寧だけど若干棘を含んだ私の言葉に彩夏は視線を外し、グラスを傾けてワインを一口飲んだ。

「ないでしょ。少なくとも私は記憶にない」

 私だって記憶にない!

 不用意な質問を発したせいで自分が、テレビとかで見かけただけのくせに会ったことがあると勘違いしている人みたいになって口惜しい。

「さっきからさ、別に酌なんてしなくたっていいんじゃない。全員ほとんど同じ年なんだし」

 彼女が軽く言ったその一言に、今まさに颯のためにウィスキーのソーダ割りを作っていた私は恥ずかしくて顔も上げられなかった。颯への媚を見透かされた。私が彼に気に入られたいがために飲み物やおつまみに気を配ったり、会話にも出しゃばりすぎず控えめに微笑む程度に留めたりするのを見破られていた。元々そんなしおらしい性格でもないくせに。ハイボールのグラスをテーブルに置き俯いていると、少しの間のあと彩夏が私のグラスにチューハイを注いだ。

 颯と琢磨がベランダから戻ってきて、以降私と彩夏は一つも言葉を交わさず、男性たちの会話を聞いて笑ったり時々口を挟むくらいで飲み会は終わった。

 琢磨と彩夏が帰っていったあと、私は重だるい疲れに圧倒されてソファに突っ伏した。けっこう飲んだのに緊張のせいか気分が悪くなるだけで、ちっとも酔えていない。

「あー疲れた。荘田彩夏ってあんな子なんだね、普通に会ったら絶対に友達になりたくないタイプだわ。同い年とは思えない威圧感」

「そうか? 俺は何も感じなかったぞ。無口なだけで良い子じゃん、酒も強くて何杯も飲んで楽しそうだったし。お前の考えすぎだよ」

「えーそうかな、普通は女同士が初対面だったら和むまで世間話とかするもんだけど、あの子は私のことをじろじろ見るか、牽制してくるかばっかりで」

「確かにお前のこと見てたなぁ、でもそれは関心があるってことじゃねえの。口下手なんだよ。あと根暗っていうか陰があるよなあの子は」

 あの不遜な態度を根暗だなんて、男はやっぱり美人には採点が甘くなる。揉めたくないから否定しなかったけれど私は彼女をそんな風には受け入れられなかった。彩夏の颯への態度は普通でも、私への態度は相当当たりがきつい。私が琢磨を狙っているとでも思っているのだろうか。もしくは同じ場に居る同性はとりあえず全員蹴落としてゆくのが、彼女のスタイルなのだろうか。

「琢磨もよく考えたな、このホテルなら東京からも遠いし客も少ないし山の中だし、密会には絶好の場所だ」

「うん、琢磨さんにとっては馴染みの場所だから使い勝手も良いだろうしね。あの二人の組み合わせ、意外だけどお似合いだよね。性格が正反対そうなのに息が合ってるっていうか」

「琢磨は優しいから尻に敷かれてるんだろうな」

「敷かれてそう! 心底惚れてるって感じだったから、そこ利用されていいようにこき使われてそう!」

 私たちは彼らの私生活を想像して笑った。

「今日はありがとな。飲んでるときお前が気を利かせて色々動いてくれたから、俺も鼻が高かったよ。きゅうりをチーズとか生ハムで巻いたつまみ、あれ美味しかった。旅先でもあんなのさっと作れるのは、なんかいいよなぁ」

 颯の褒め言葉に私は先ほどの彩夏の言葉を思い出して苦笑いした。

 約二年間颯と付き合い、そのうち一年間は同棲しながらも、憧れていた期間が長すぎたからか、私は彼の前で素の自分でいるのが難しかった。つい彼の好きなタイプの女性でいようと振る舞ってしまう。颯も気づかないわけではないらしく、高校の頃の私もちゃんと覚えている彼は、逢衣は昔とはだいぶキャラが違うじゃないかとからかったりした。颯は私が元の性格のままあっけらかんと振る舞っても、興ざめしたり不満を持ったりする性格ではないのは分かっていたけど、嫌われるのが恐い。

「いくら顔が可愛くても、俺は彩夏さんみたいに無愛想で、でーんと座ったままの女の子より、逢衣みたいにニコニコして気配りができるタイプの方が好きだな」

 颯が優しさから言ってくれているのは十分分かっていたが、私はうまく笑えなかった。酔いに染まった彼の重く熱い手が私の方へ伸びてくる。

 飲み会の終盤、一緒に海へ行こうと話が盛り上がったので、くだんのカップルは早朝に再び私たちの部屋を訪れた。昨夜、部屋に帰って琢磨と二人きりになったら、きっと彩夏が“明日は二人で過ごしたい”と反対すると思っていたのに、意外だった。まだ眠っていた私と颯は海水浴の準備すらしていなかったので、あわててバスタオルや日焼け止めをナップザックに詰め込んだ。浴室乾燥で干していた二日連続登板の水着は若干湿っていたが、これしか無いので持っていくしかない。

 みんなで朝食のバイキングに行ったあと、起き抜けでしかも二日酔いで頭が朦朧としていた私と颯は、すっかり酒は抜けてしゃっきりしている琢磨に車の運転を任せて、ホテルを出発した。車では彩夏がてっきり助手席に座ると思ったのに颯が助手席、彼女は後部シートで私と隣り合わせだった。

 何これ……と思ったが、彩夏がいち早く後ろに乗り込んだので仕方ない。私が琢磨の隣の助手席に座れば、もっとおかしな並びになる。私も助手席よりも後部の方がブレーキの負荷を感じにくいので好きだけど、こういうときはカップル同士で並ぶのが普通ではないだろうか。

 途中ガソリンスタンドに寄り給油の間、颯と琢磨がトイレのために外へ出てしまい、狭い車内に私たちだけが取り残された。また彩夏と二人きりのシチュエーションだ。これから海で一緒に遊ぶことを考えて、私は無理やり笑顔を作り、できる限り明るいトーンで話しかけた。

「彩夏さんは海とかよく行くんですか? あ、有名人ですぐ気づかれるから行けないよね、その点、今から行く戸潟海水浴場は良いですよ、小さめのビーチでアクセスも良くないから、ほとんど人が来なくて穴場だって、観光ガイドの本に書いてありました。昨日私たちが行った日荘マリーナ海水浴場は、ホテルからまあまあ近いのはいいんですけど、やっぱりお客さんは多かったから、戸潟の方が彩夏さんはくつろげそうですね」

「気まずいからって無理に喋らなくてもいいよ。逆に疲れるでしょ」

 はあ、そうですか。確かにあなたの言う通りですね。それではこの旅行が終われば二度と会わない者同士、存分に好きに無言で過ごしましょう。ていうか私たち同い年なのに、私は敬語、あんたはタメ口。いくらこっちが素人だからって、ナメないでくれる?

 ぐいと彩夏から顔を背けると、窓を拭いているガソリンスタンドの店員とモロに目が合ったが、そっちの方が数段ましな景色だった。

 戸潟海水浴場は駅から相当離れた、車でしか来られない立地なのが幸いして客が少なく、私たちはほとんどプライベートビーチの気分で海を満喫することができた。彩夏の水着の色も黒で、しまったと思ったが、彼女はビキニで私はワンピースだったので、形まで丸かぶりでない分助かったと思うことにした。海ではカップルごとに分かれて過ごせたので、私は颯とゴーグルをつけて岩づたいに泳ぎ、岩陰に隠れている魚を眺めたりして、ようやく開放的な気分を満喫した。

 立ち泳ぎに疲れた私は岩の表面を手で掴みながら浜へ戻ってゆく颯の逞しい肩に腕を巻きつかせて、後ろからコバンザメのように彼の背中にくっついていた。波は顎のすぐ下でちゃぷちゃぷ鳴り、冷たい海のなかで、海面から露出した彼の肩の体温と、私の息だけが熱い。軽く開けた唇の間から時折海水の滴が入りこみ、少し塩辛い。目の前では彼の特徴的な少し尖った耳が、動物が耳を澄ましているときみたいにぴんと立っている。彼はいつも短髪にしているので、横に張り出した耳がカンガルーみたいだと指摘した子が高校のとき同じ部に居たけど、私はむしろその立ち耳がふてぶてしく雄々しい彼の魅力を引き立てているようで好きだった。真っすぐ前を向いて波間を進む、削ぎ落としたような頬や奥二重に大きな黒い瞳も精悍だ。

 琢磨は人目を離れて周りを気にせずに彩夏と一緒に過ごせるのがよほど嬉しいのか、終始笑顔で彩夏の手を引いて海へ入って行ったり、波間に隠れてキスしたりと積極的だ。颯が指笛を吹いて冷やかした。水着になった彩夏はちょっとびっくりするくらい痩せていて、腰の位置が高く、胸だけが豊かに盛り上がっていて、何らかの加工をしているのか、もしくはもともとそれぐらいの身体の持ち主でないと彼女のような職につけないのか、私には判別がつかなかった。

 泳ぎ疲れた私たちは車に積んできたパラソルの下に集まり、行きの途中コンビニで買った昼食を取った。サンドイッチやカップヌードル、コーラといったお世辞にも豪華とは言えない食事だったが、ビーチタオルにくるまれて海を眺めながら食べる、魔法瓶に詰めたお湯で作ったカップヌードルは、チープな味ながらとても美味しかった。プラスチックのフォークで食べたそれはチリ味で麺が縮れ、熱くて辛くてカニのエキスの旨味がきいている。

 予報だと雨が降るのは夕方以降だと言っていたのに天気が急に怪しくなり始め、厚い雲が海上を覆い、ぱらぱらと細かい雨が降り出した。私たちはレジャーシートを畳んでパラソルを抜き、車へと戻り、今度は颯の運転で出発したが、たちまち大きい雨粒がフロントガラスをたたき始め、せわしなく動くワイパーの仕事を増やした。

「結構降ってきたな。山道大丈夫かな」

 戸潟は昨日の日荘マリーナより遠く、ホテルまで一時間半程度はかかる。山に入る前の下道を走っている時点で雨は豪雨に変わり、やっと山道に入ったころには大きく重たい雨脚が車を包み、視界は白く煙ってきた。

「この先カーブだらけになるよな。危険だから一旦引き返すか?」

 苦戦しながらハンドルを切る颯の提案に、行きの道のりを思い出した私は頷いた。

「うん、一旦戸潟に戻ろう」

「でも戸潟にも何も無かったよな、コンビニさえ見かけなかった。天気予報では雨は一晩中降るって言ってた。雨が止むのを待ってたら最悪ホテルに帰れないか、帰れても今より暗い山道を通らなきゃいけなくなるんじゃないか?」

 琢磨の意見ももっともだ。戸潟には海と民家しか無く、雨宿りできそうな場所や売店、レストランのある小さな町に辿り着くにはビーチの先の山をまた一つ越えなければいけない。颯が肩を動かして筋肉をほぐし、気合を入れ直した。

「仕方ない、とりあえずホテルへ向かおう。雨がひどくなりすぎたら、路肩に停車して休むよ。行こう」

「運転代わろうか」

 助手席で琢磨が腰を浮かす。

「いや、大丈夫だ。まだ視界は広いし、道路もアスファルトだから。カーブはブレーキきかせながらゆっくり進むよ」

 土砂降りの雨が車に叩きつけるなか、颯は慎重なハンドルさばきで黙々と車を走らせる。琢磨は折々に、もう少し内側に寄った方が良いと忠告したり、いいぞその調子、と励ましたりした。私よりも颯のアシストが上手い。彩夏は黙っていたが、心配する風でもなく表情も変えず、雨が斜めに降っている窓の外を眺めている。

 ワイパーも意味がないほどの雨がフロントガラスを叩き、ほとんど洗車状態のなか、本来なら景色がいいはずの崖上のヘアピンカーブの地点も何も見えず、颯はスピードを落としてなんとか無事に曲がりきった。いくつもの危ないカーブをクリアしてようやく下り道になり、しかしあともう少しでホテルというところ、アスファルトの道路から未舗装のホテルの私道に切り替わった途端、道の泥濘にタイヤがはまり、スタックした。

 あと五分も走ればホテルに到着、という地点でのトラブルだ。私たちは全員びしょ濡れになりながら泥濘に足首まで埋めて力の限り車を押してみたが、タイヤが空転して、車はびくともしない。海で心ゆくまで泳いだ直後のこと、すぐに肉体は疲労し、さらに冷たい雨が体温を急速に奪った。

「くっそ、後ろのタイヤがどうしても動かないな。誰か人を呼んでくるしかないな。もうすぐの距離だし、俺ホテルに行ってくるよ」

「僕も一緒に行くよ。二人は待ってて。近くって言ってもこの雨だ、もし途中で迷うと良くない」

 私と彩夏も一緒に行ければ良かったが、傘を差しても意味がないほどの豪雨のなか、泥濘に足を突っ込んで歩くのはあまりにも大変そうだった。幸運なことに車からすぐの位置に、ホテル専用のバーベキュー広場があり、屋根ありの炊事場を見つけた私と彩夏は、とりあえずそこに待機して、激しい雨のなかを駆けてゆく颯と琢磨を見送った。彼らはさすがに足が速くあっと言う間に姿が見えなくなった。

 バーベキュー広場は丸太の屋根の広いスペースで、三つの火おこし場と木製のテーブルセットがある。後ろは森で生い茂った緑は薄暗く、私たち以外無人なのは少し恐かったが、雨は完全にしのげた。濡れた草と土の匂いが濃く立ちこめている。

「大変な目に遭ったね。ついさっきまで海で泳いでたなんて信じられない。すぐホテルに戻って仮眠できると思ってたのにな」

 雨に濡れないよう抱きしめて持ってきたバスタオルで髪を拭きつつ、笑いながら彩夏に話しかけると、彼女はさっきまでは浮かべていなかった恐怖の表情で顔が凍りついている。熊でもいるのかと彼女の視線の先を追ったが、バーベキュー用の木製テーブルが雨粒に叩かれているだけで、特に何もない。

「雷が鳴ってる」

 耳をすませば雷鳴が聞こえ、空には血管が浮き出るように稲妻が走った。雨にばかり気を取られていて気づかなかった。

「本当だ、鳴ってるね。音が小さいから遠くみたいだし、ここは屋根もあるから大丈夫だよ」

 私の言葉に耳を貸さず彩夏は目を大きく見開き稲妻が走った空を見つめ続け、あとずさった。確かにここは屋根付きとはいえ屋外だし、身を隠す場所もないから心理的な不安は大きい。しかし彼女の怯えぶりは不思議なほどだった。

 私の予想に反し雷は猛スピードで近づいてきて、すぐ近くで雷鳴を轟かせるようになった。車に戻ろうかとも思ったが、また雨のなかを走らなくてはいけないし、車の停まっている林は真っ暗で恐ろしげだった。

 突然彩夏は濡れたハイヒールのサンダルとまだ湿っているショートデニムを脱ぎ、二つとも遠くへ放り投げた。気でも狂ったのか、私は思わず持っていた自分のバスタオルを彼女の身体に巻いた。

「どうしたの、服が冷たかったの?」

「私のおじいちゃんは、雷に打たれて死んだの。畑で農作業中に。逢衣さんは知らないでしょ、雷が直撃したら全身すごい火傷なんだよ。誰も雷がどこに落ちるかなんて予想できない。すごい威力だから、打たれたら即死する」

 彼女はネックレスも外し、地べたに放り投げた。高価そうなダイヤモンドのトップが土と砂にまみれ、見る影も無い。

「おじいさんの話は分かった。でもさっきからなんで身につけてるものを投げてるの」

「雷は金属に落ちるから。おじいちゃんも持ってた鉈に落ちたんじゃないかってお葬式で噂されてた」

 雷についての注意書きを過去にいくつか読んだことのあった私は、それが迷信であることは知っていた。雷は金属に落ちるのではなく、落ちた雷が金属を伝うだけだ。でも今の彩夏には何を言っても無駄な気がする。

 雷鳴のシンバルは私たちの真上に近づき、凄まじい轟音を奏でた。彩夏は小さく叫んで私に抱きついた。強くしがみつく彼女の腕は大きく震え、雨か汗で冷たく湿っている。私は彼女の背中に腕を回し、少しでも落ち着くように上から下へ撫でたが、彼女が絶望した表情で凝視しているのは、私のシルバーのピアスだった。

 もう、しょうがないな。観念して手を伸ばしてピアスをはずしテーブルの上に置き、ついでにジッパーのついているスカートも脱いで、テーブルに向かって放り投げたが、コントロールが悪く地面に落ちた。ああ、泥まみれだ。ブラジャーのホックの金属にも気づいたが、忘れているのか彩夏がつけたままだったので、私も気づかないふりをした。

 雷が鳴る度に彼女の雨に濡れた冷たい太腿の外側が、私の温かい太腿の内側に入り込み吸着して張りつく。いい年の女二人が野外でショーツ姿で抱き合っている、一体これはなんていう状況なんだろう。雷さえ鳴っていなければ、笑えてくるほど滑稽な姿だ。

 私は雨で煙るバーベキュー広場の奥を睨んだ。あの向こうにはホテルがある。頼むから今は颯たちにはホテルから出て欲しくない。雷雲がほぼ真上にある今の状況で、表を歩くのはあまりにも危険だ。私はテーブルに置いたバッグを探り、中から携帯を取りだした。既に何件も颯からの着信が入っていて、私は“大丈夫。雷が去ったらここまで来て”とメッセージを送り、彩夏を安心させるために“金属”を再びテーブルの遠くの位置に追いやった。

「でも私、ずっと思ってたの。おじいちゃんが亡くなったあと、次に雷に打たれるのは私なんじゃないかって。本当は、雷に打たれるべきなのは私なんだよ」

 暗い声で囁く彼女の温かい息が私の首筋に当たる。

「子どもだったから、おじいさんが亡くなったのがショックで、そんな風に思っちゃったんだね。仕方ないよ」

「ううん、ママが言ったの、“次はお前の番だよ”って。おじいちゃんは好き勝手ばっかりする人だった、あんたもそう、だからこのままだと次はお前の番だよって」

「あのね、どの親でも“悪い子は雷様におへそを取られるよ”って言って叱るの。私も母親に言われたよ」

 優しい声で話しながら、でも彩夏の場合は少し違うな、と思った。実際に身内が雷で死んでいるのだから、おへそのたとえ話とはレベルが違う。

 再び雷が鳴り響き、彩夏の閉じた瞼がびくびくと引き攣れ、身体から徐々に力が抜けてゆく。私は崩れ落ちそうになっている彼女をかき抱いて、あやすようにゆらゆらと左右に揺らした。

「しっかりして、大丈夫。私たちには絶対に落ちないから」

「なんでそんなこと分かるの」

「あの木に落ちるから。ほら、広場の右の方にひときわ背の高い木が生えてるでしょ。あの木が避雷針の役目をするから、私たちのいるこの付近は絶対に安全だよ」

 私は周辺でもっとも高い杉の木を指差した。そう、雷は高いものに落ちる。もし私たちのいる屋根に落ちても電流は壁を伝うから、中心に立っている私たちは大丈夫なはずだ。多分。

「本当に? かならず?」

「うん、保証するよ。私たちには落ちない」

「信じる」

 意外に力強い言葉が返ってきて思わず彩夏を見つめ直すと、薄い涙の膜が張った大きな瞳はすごく真剣に私の顔を覗き込んでいた。

 なぜ懸命に彼女を慰めるかといえば、それは私が私の正気を保つためだ。私まで怖気づいたら間違いなく二人ともパニックになる。落ち着いた声を聞いて安心したいのは彩夏だけでなく私も同じだ。たとえ自分の口から出た言葉でも、耳に入れば説得力のある響きに変わる。

 雷はついに私たちの真上で大演奏会を始めた。激しいフラッシュの直後、雷鳴が轟く、信じられないほど近くで。彩夏でなくても十分恐ろしく身の危険を感じる。私は雷を舐めていた。

「あの高い木に落ちても地面を伝って感電するでしょ。あの木から私たちのいる場所、そんなに離れてないよ」

 彩夏の知識は今度は正解だった。確かに落雷を受けた木の下で雨宿りをしていた人間が感電死した例は多い。ここからあの木の距離だと地面を伝って感電する可能性は十分にある。私はついに泣き出した彩夏の頭を抱えて、彼女の濡れている髪の毛に自分の頬をすりつけた。

「じゃあすごい近くで稲妻が光ったら、一緒に跳ぼう。地面に足がついてなければ感電しないでしょ」

 なんの根拠もない対処法だったが、彩夏は真剣な表情で頷いた。目の前が白く眩むほどの稲妻が光り、私たちはジャンプした。凄まじい落雷の音に覚悟を決めたが、私も彩夏も普通に地面に着地していた。

 とっさに一番高い杉の木を見たが変化はなく、代わりにウィンウィンと警報のサイレンのような、けたたましい音がすぐ近くから聞こえた。見ると林道の泥濘に置いてきた琢磨の車が音の発生源で、サイレンとクラクションを同時に鳴らしながら、ワイパーを激しく動かしている。

「車に落ちたんだ」

 彩夏が呟く。彼女が言った通り、雷がどこに落ちるかなんて誰にも予想ができないのだ。雷が去ったあとも、彩夏は私の背に腕を絡ませてしばらく抱きついたまま、私の肩に頭を載せて息を潜めていた。

 颯と琢磨は私のメッセージに従い、雷が去るまではやきもきしながらもホテルに待機し、その後ホテルの従業員二名を引き連れて私たちの元へ駆けつけた。颯は私に駆け寄った直後は不安そうな目をしていたが、元気なのを確かめると、従業員たちと琢磨と共に車を力の限り押した。彩夏はといえば、あれだけ憔悴していたのに、雷が去ると同時に理性を取り戻し、素早く服を身に着け、何事も無かったかのように琢磨を迎えたのが可笑しかった。

 雷の落ちた琢磨の車は防犯装置が作動しただけで、解除すれば警報音も止み故障することなく、従業員の持ってきた段ボールを敷いて後ろから押しながら発進すると泥濘から脱出した。

 海水浴に懲りた私たちは、翌日はひたすらホテル内の施設で過ごした。全員が昨日の騒動で疲れきっていたので、昼過ぎからようやく起き出して、私と颯は夕方過ぎから琢磨と彩夏に合流し、早めの夕食を食べたあと四人で卓球をした。初めはトーナメント形式で対戦を組んで琢磨が優勝し、続いてダブルスの試合も行った。グーとパーでペアを決めると、颯と琢磨、私と彩夏に分かれた。

 雷の影響で彩夏の別な一面を垣間見ることができた私は、最初の頃とちがい、笑顔で普通に話せるようになっていたので、彼女とダブルスを組むのも楽しかった。私たちのチームがリードすると、彼女はほっぺたの裏がちょっと見えるほど口を大きく横に開けた笑顔になった。

「私たち勝てるかもしれないよ! 気合入れていこう」

 ハイスピードのスマッシュを決めると、彼女は子どものような澄んだ笑い声を立てて私にハイタッチした。相変わらず私を盗み見るのはやめてほしかったが、それ以外は打ち解けていった。私たちは颯と琢磨のペアに僅差で勝った。

 卓球からの流れで自然と温泉も一緒に入ることになり、私たちは女湯と男湯に分かれた。なんとなく予想できていたがやはり脱衣所でも彩夏は服を脱いでいる私をあからさまに見つめていて、私はもう好きなようにしろと諦めて、むしろ堂々と服を脱いだ。

「逢衣って体重何キロあるの」

「普通訊かないでしょ、面と向かって。四十七キロだけど」

 呆れながらも私は本当の体重を答えた。

「ふうん。私四十三キロ。身長は?」

「百六十八センチ」

「ふうん。一緒」

「じゃあ彩夏の方がだいぶ軽いね。良かったね」

「でも逢衣の方がかっこ良い身体だね。同じ背なのに脚は私より長いんじゃない?」

 私の身体を見てどうせ“勝ったな”とか思ってるんだろうと思っていたから、意外だった。

「どうかな。同じくらいだと思うけど」

「背中や肩のラインが真っ直ぐで綺麗だね。ヨガとかやってるの」

 彼女の手が私の肩甲骨の辺りを撫でて、ぎくりとする。

「やってない」

 全裸の相手を褒めるなど、彼女の世界には普通にあることなのかもしれないが私には居心地が悪かったので、逃げるようにして浴場へ移動した。

 各自身体を洗ったあと、連れ立って露天風呂へ続くガラスの引き戸を開けた。山の斜面を段々に切り崩して四種類の風呂を作った、ダイナミックで野趣溢れる露天風呂だ。

 外気の冷たさに肩をすくめながらも、一つ一つの湯の温度を確かめて、石の階段を登り一番上の湯に浸かる。風呂が下になるにつれてぬるくなっていく仕組みだった。だから一番上の風呂はほとんど源泉かと思うほど熱く、熱めの風呂が好きな私は血流がぐんと盛んになる体感に喜んだが、熱いのが苦手という彩夏はすぐに上がりたがった。

「そろそろ移動しない?」

 彩夏は一番下にある白濁色の“絹の湯”を指差した。

「行ってきなよ。私は生のままのお湯が好きだから」

「じゃあ私ももう少し」

 見上げると、丸太で作った風呂の屋根に向かって白い湯煙が絶え間なく上がっている。灰色と紺の混ざった完全に暮れる寸前の空よりも、山の斜面に繁る木々のほうが先に夜の闇を連れてきていたので、空をバックにして枝や葉が影絵のように見えた。

「身長同じなのは意外。私の方が高いと思ってた」

 当然のように言う彩夏に少しかちんとくる。

「なんでそう思えるの? ずっと目線同じくらいだったじゃない」

「そうだっけ? でも確かに雷のとき抱き合って、同じ背丈だったね私たち。ねえ、私あのとき感動した。途中まですごく恐かったんだけど、逢衣が“私たちには絶対に落ちない”ってはっきり言ってくれたときに、恐怖がすっと引いていったの。魔法でもかけられたみたいに」

「ほんと? それは良かった」

 昨夜ベッドで颯に、バーベキュー広場でショーツ姿で彩夏と抱き合った話をしたら大笑いで、仲好くなれて良かったじゃんとからかわれた。あのとき私の腕のなかで泣いていた彩夏の面影は、いまの彼女には微塵も無い。

「颯さんとはなんで付き合ってるの」

「なんでって、好きだからに決まってるでしょ。颯は高校のバスケ部で活躍してた憧れの先輩でね、私は“いいなぁ”って思ってたんだけど全然相手にされなかったんだよ。でも、あとで再会して、あっちから告白されたの。高校のときはまさか颯と付き合えるなんて思わなかった。私いま、自分でもすごい幸せ者だと思う」

 素っ裸で話していると普段よりも素直になれて、私は惚気全開になった。

「早くに結婚して子ども三人作るのが、学生の頃から私の夢なんだ。颯はちょっとファッションヤンキーみたいなとこあるけど、ああ見えて営業マンとして真面目に働いてるんだ」

「ファッションヤンキー?」

 彩夏は呟き、颯の容姿を思い出しているのだろう、声を出して笑った。

「初めて聞いた言葉だけど、まさにそんな感じだね、あの人。いや今はもちろんそんな風に見えないけど、昔はそうだったんだろうなっていう面影が、ちょっと残ってる」

「高校のときから悪ぶって見せるのが好きで、髪も金茶色に染めてたよ。私が颯を好きになったのはね、部活帰りのバスの後部座席で、颯の隣に座ったときだったの。颯は仲間二人と一緒にいて、大きな声でデカい態度でしゃべっててね。はっきり言って迷惑なヤンキー崩れって感じだったから、私は万が一にでも絡まれないよう、ひたすら眠ったふりをしてた。仲間たちが降りて颯が静かになったから、私は薄目を開けて颯を観察した。そしたら颯、仲間の目が無くなった瞬間急にオラオラオーラが消えて、すっごく股広げて座ってた脚を段々すぼめて、きちんと膝を合わせて座り直して、肩もすぼめてイヤホンで音楽聴きはじめたんだ。“何この人可愛い!”ってなって、一気に惚れた」

「意味分かんない。虚勢張ってる姿なんて、普通幻滅するとこでしょ」

「だよね。でもなんか、母性本能くすぐられたっていうかさ、仲間うちで威張ってるとこからのギャップにやられたっていうか。颯は社会人になっても未だに高校のときの仲間とはよく遊んでるけど、まだあのキャラのままなのかなとか想像すると楽しい」

「はいはい、好きなんですね。お湯熱いな、もう出ようかな私。逢衣はどうする?」

「私は気持ち良いからもう少し入ってる」

「そっか。じゃあ私も」

 彩夏が段になっている場所に腰掛けて、お湯の位置が彼女の首から鎖骨まで下がった。

「そっちの馴れ初めも教えてよ。眼科でナンパされたの?」

「ううん、告白したのは私の方。コンタクトレンズを買うために琢磨の働いてる眼科へ行ったの。琢磨は視能訓練士で臨床検査技師の資格も持ってて、検査で私の視力を測って、いままでずっと裸眼だった私に、初めてコンタクトを入れてくれた。初めてだったからすごく目がごろごろして涙がぼろぼろ出たけど、琢磨は“大丈夫ですか? いったん外しましょうか?”ってとても優しくて。顔も間近で見れたけど清潔感があったし、コンタクトを載せた指も細長くてきれいで、仕事も一生懸命してたから好きになった。デートに誘ったのも、付き合ってほしいって頼んだのも、全部私。事務所には恋人は絶対に作るなって言われてるから、周りには内緒だし、今年の夏もこの旅行でしか会えないけど」

「えー、すごい良い話。琢磨さんが猛アタックしたのかと思ってたけど違うんだ」

「私だよ。琢磨はお客さんに手を出すタイプじゃない。あーあつい、もう無理」

 耐えきれなくなった彩夏が勢いよく湯から半身を出すと、ちょうどお湯に浸かっていたあたりから下の肌が火照って橙色に変わっていた。

 湯船から上がると彼女はふらふら歩き、タオルで顔だけ隠して湯船の脇にある寝椅子に仰向けで寝そべった。のぼせたのか、両腕をだらんと脇に垂らし、脚にも力が入っていない。顔バレしたくない気持ちは分かるが、他に隠すところがあるだろうとどうしても思ってしまう格好だ。風呂に入りに来る人たちも、全裸死体のような姿の彼女が気になるようで注目を集めていた。

 入浴後、浴衣に着替えた私たちは、ホテルの中庭で、一階の売店で買った花火をして遊んだ。なんの変哲もない手持ち花火でも、いざやってみると色とりどりの炎が夕闇に鮮やかで、火花や煙くささも懐かしさを誘う。男二人がロケット花火や打ち上げ花火を一列に並べ順繰りに火をつけて威勢の良い音を鳴らし、夢中で飛ばしている間、彩夏は花火と一緒に買ったシャボン玉を取りだした。

「一緒にやらない?」

「いいよ」

 まだ陽が完全に沈みきっておらず、山の端にかかる夕陽が辺りを橙色に染めていたので、二人の吹くシャボン玉もよく映えた。キッチュな緑色の吹き出し口から生まれ出た小さな複数のシャボン玉は、虹の模様を表面にくるくる描きながら、木々のさざめくポーチの方へ風に流されてゆく。一方で花火は広い空に向かって、ひゅうっと音を鳴らしながら幾筋も、地上からの流れ星を飛ばす。

「くっつけて大きいの作ろう」

「分かった」

 彩夏の提案を受けて、私が彼女の方へ顔を寄せ、慎重に息を吹き込んでシャボン玉を徐々に大きくさせると、彩夏が同じく大きく育ったシャボン玉を私の玉にくっつけてきた。真横に並んだ彩夏の唇からふーっと息がストローに吹き込まれるのが伝わってくる。風呂上がりなのに薄化粧を施していてさすがにぬかりない。一方の私は化粧水しか塗っていない。

 彩夏の嬉しそうな、目がなくなるほどの笑顔が、どんどん大きくなる虹色の玉に隠れた。くっついて重くなったシャボン玉は、私たちの吹き出し口から離れ、ゆっくり下降したあと、地面に触れて割れた。

 最終日のこの夜、また私と颯の部屋に集合して皆で飲んだのだが、予想しない事態が起きた。一昨日の夜にも増して飲んでいた彩夏が、謎のサイコロを出してきたのだ。

「これで遊ぼう、カップルゲームで使うサイコロだよ。ただし本当にカップル同士でやっちゃうと生々しくなりすぎるから、今夜は男と男、女と女の組み合わせね」

 彩夏は酔っぱらい特有のぶれぶれの怪しい手つきで二つの青いサイコロを右の手のひらで転がした。

「なにそのサイコロ、初めて見るけど。もしかして今朝宅配便で届いたやつ? 旅先の住所に通販が届くなんて初めてだったから、僕驚いたんだけど」

 琢磨がけげんな表情で彩夏の手の中身に顔を近づけた。

「ちがう、これは前から持ってたの。もしかしたらこの旅行で使うかもと思って、わざわざ家から持ってきたんだよ」

「もともと僕と二人の旅行の予定だったのに?」

「そう、初めは琢磨と二人で遊ぼうと思ってたの。ほらっ」

 サイコロはテーブルの上を転がり、彩夏ほどではないが相当に飲んだ私と颯と琢磨の酔眼が行方を追いかける。止まったサイコロの片方に“膝”、もう片方に“噛む”と書いてある。

「はい、じゃあお互いの膝を噛んで」

 彩夏の号令もむなしく、琢磨は難しい顔でサイコロに書いてある文字を読み上げていった。

「こっちは首、お腹、胸、膝、指、唇。こっちのサイコロは触る、息を吹きかける、舐める、吸う、噛む、撫でる。片方に身体の部位が、もう片方に指示が書いてあるのか。なんだこれ、随分いかがわしいな」

「エロサイコロか! さすが芸能人、色んな遊び知ってますね」

 一気にテンションの上がった颯が叫んだ。

「別に仕事関係で知った遊びじゃないし、雑誌で見ただけだし、いままでこれで遊んだことないから。今日が初めて。流行ってるって聞いて興味本位で買ったの」

「本当か? 僕はこんなサイコロの存在自体聞いたことないぞ」

「俺も」

「私も。一体どこ界隈で流行ってるの?」

 琢磨は彼女がこんなものを持っていてショックだったのか、酔いも醒めた顔つきで彩夏の顔を凝視している。颯はこの微妙な空気がツボにはまったのか床に転がって笑い続けている。私もお酒を飲んで盛り上がってきたところで変なサイコロが登場したので笑えて仕方ない。

「いいよ、やろうやろう! 盛り上がるかもしれないし」

 真っ先に彩夏の提案に乗り、目の前に投げ出された浴衣から伸びた彩夏の脚を両手で掴み、顔を近づけた。

 なんて小さな膝! 痩せてるからじゃなくて、骨自体がミニサイズとしか思えない。おまけに膝下にも毛穴が無くて、白い肌に骨のでっぱりがアクセントになって、妙に色気がある。膝の上に続く太腿も横幅を増やさずほっそりと奥まで続いている。彩夏が私が噛みつきやすいように脚を曲げて膝を突き出すと、骨の形はますます浮き出た。私が口を開いて彼女の膝小僧にかじりつくと、男性陣からはうぇ~っと低い呻きが上がった。彩夏をびっくりさせるために大きく口を開けてわざと犬歯をむき出しにして再度歯を立てたが、びくともしない彼女の膝は強い弾力で押し返してきた。口を離すと彼女の膝には私の歯形が薄く残っていた。

 何が楽しいんだという絶望的な表情で、琢磨が颯の膝に形だけ歯を当てたあと、くすぐったいから止めろと逃げ回る琢磨を取り押さえて、颯がかじりついた。合コンでやればきっとエッチな雰囲気になるんだろうけど、すでにカップルが成立しているこのメンバーだと馬鹿笑いの種にしかならない。最後に彩夏が顔にかかる前髪を耳にかけながらうつむいて、私の膝を狙ってきた。

「やっぱ私はいい、ちょっと待って本当にいいや、くすぐったい、やめて!」

 大げさに暴れる私の脚を意外なほどの力強さを発揮して両腕で固定した彩夏は、私の膝の下の方に噛みついた。思わず、痛っと声が漏れるほど強く。脚を引っ込めようとしたが、彼女が長いまつ毛に縁どられた瞼をしっかり閉じて噛みついている姿を見て、力が抜けてしまった。彩夏が離れたあと私の膝には少しへこんだ赤い小さな噛み痕が残っていて、指で撫でたが消えなかった。容赦ない、私ももっと強く噛みついてやればよかった。

 結局サイコロは一度振られただけで琢磨がもう止めようと言い出しお開きとなり、活躍の機会は短かったが、彩夏は満足げに琢磨に肩を抱かれて自分たちの部屋へと帰っていった。私と颯は彩夏を肴にしばらく馬鹿話を楽しんだ。

「彩夏さん、彼氏はまともだけど本人はイカれてるな。なんだよあのサイコロ、合コンならともかく、旅行先にまで持ってくるか、フツー」

「でも楽しそうだったね! よく笑ってたし、あれが素なんだろうな」

「琢磨は本気で信じられないって顔してたぞ。今晩モメるだろうな、あの二人は」

「ほんと彩夏って謎だよね。つんけんして感じ悪かったのに、それが今晩は、膝かじれ! だもん、訳わかんない」

「でもお前もたいがい変だよな。今日も率先して一番に膝かじりに行ってたし」

「そう? じゃああの人のペースに乗せられてんのかな。私は普通にしてたつもりだったけど」

 最終的に“やっぱり芸能界は恐い”と強引に結論付けて、話を終えた。私たちは旅行最後の晩に、あんなにたくさん持ってきた酒を一滴残らず飲み干していた。

 翌朝、ロビーでチェックアウトをすませ、颯がトイレに行っている間、売店で土産物を流し見していると、彩夏が近寄ってきた。

「何見てるの、お土産?」

「うん、家族になんか買って帰ろうかなと思って。これどうかな? うにのふりかけ」

「うには、私なら生で食べたい」

「確かに。さっき冷蔵コーナーにうにの瓶詰めあったから、あれ買って帰ろうっと」

「待って」

 冷蔵コーナーに行きかけた私の腕をつかんで、彩夏が引き止める。

「これ私のアドレス。また連絡ちょうだい」

 名刺サイズの紙に彼女のアドレスが手書きで記されている。こんな古風な形で連絡先を伝えてくるなんて、見かけによらず几帳面なのかもしれない。紙片を持つ彩夏の指は微かに震えていて、私が受け取ると彼女の手はすぐに引っ込んで自分のワンピースの端を掴んだ。

「分かった、ありがとう。あとでメール送っておくね」

「今この場で空メールを送って。この紙をなくしたりして、連絡先が分からなくなったら困るでしょ」

 有無を言わせぬ口調に圧され、私は携帯を取り出すと、もらったアドレスを入力し、本文に“南里逢衣です”と書いて送信した。彩夏の携帯はすぐに反応し、メールが届いたのを確認して彼女は満足そうだった。

「じゃあ、またね」

 彩夏は軽く手を振るとサングラスをかけて、一度も振り返らずに琢磨の元へ歩いていった。

 この三日間、彩夏と過ごして、私には分かったことが一つだけあった。

 ああ……、この子、女友達いないんだろうなぁ。

 プライドが高いし世間話が出来ないし特殊な職業だし負けん気も強い。女社会では明らかに敬遠されるだろう。男にはちやほやされてきたけど、女にはやっかみや嫉妬されることもあって仲好く出来なかったんだろう。だからこんなにぎこちない。私は彼女に少し同情した。初めは無理なくらい苦手だったけど、泊まりがけで一緒に過ごし、彼女の色んな面が見られて、結構おもしろい人だと分かった。いままでの友達にはいないタイプで新鮮だ。東京へ帰っても、もしかしたら友達になれるかもしれない。

<続きは本編でお楽しみください>

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