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ドライバー 中島さなえ

 

vol.6 jinrikisha

 ズリ、ズリ――
 その夜遅く、かすかなうめき声と、物を引きずる音で目が覚めた。
――しまった。錠をかけ忘れたか。
 戸口を閉める音がして、物音が通りへと遠ざかっていく。もしや物盗りだろうか。鉛のように重いからだをソファから叩き起こし、外へと飛び出した。
 薄暗い通りの向こうに、走り去っていく力車の車輪と、車体から宙をつかもうともがいている腕が見え隠れしていた。取れかけの包帯がヒラヒラと蝶のようにあたりに漂っている。
――磯吉、いったいどうして宝木を……。
「待て、磯吉」
 わたしは必死に駆けて力車の後を追っていった。力車は右に左に、路地から路地へと駆け抜けていく。人をひとり乗せた力車だというのに、なかなか追いつくことができない。しかしその時、曲がろうとした垣根の竹に幌屋根がひっかかり、一瞬だけ速度を落とした瞬間を狙って、思い切り地面を蹴り力車に飛びついた。なんとか車軸に足を乗せて、幌屋根に両手で必死にしがみつく。力車は途端に速さを増し、せまい路地を突風となって駆け抜けていく。
 両端の景色が線となってちぎれ、みるみる内に菅南町のはずれへと近づいていった。
「ああああ――。あぐぐ……」
 懸命にからだを伸ばして中をのぞきこむと、宝木の詰まった口から、なにごとかを訴えるように声が漏れ出ていた。
 袋小路にせまった時、ゴオオオオと音が轟いて、熱風がからだを包んだ。顔を傾けて前方をのぞくと、袋小路にある壁に巨大な漆黒の穴が開いていた。穴は引きこまれそうなほど深く、赤銅色の煙のようなものが辺り一面に漂っている。自分の脚がどうしようもなく震えてきた。穴から顔をそむけた宝木がわたしを振り返り、血走った目を見開いて涙をため、しきりに頭を振った。
――いやだ、入りたくない。助けてくれ。
 その時、力車が大きく揺れて、地を揺らすうなり声があたり一帯に轟いた。
〝おまえなんぞは、くらい穴に呑まれてしめえ〟
 わたしは全体重を必死に力車の片側にかけて、一気に横転させた。その瞬間全身を突き抜ける衝撃が走り、わたしと宝木のからだは砂地へと叩きつけられた。
 宝木はおののいて「あああ」とうめき声を上げ、地面をのたうちまわっている。痛むからだを起こしてあたりを見回すと、力車の姿は影もかたちもなく消えていた。ただ頑丈そうな壁がなにもなかったかのように立ちはだかっていたのだった。
 わたしは路地を歩いていき、長屋の家人に声をかけて、担架の手配を頼んだ。
 診療所に戻っても宝木はガタガタと全身を震わせていて、枕に固く頬を押しつけていた。
「いったいどういうことか訳を話せ」
 大きく息をついている宝木の横顔に言葉を叩きつける。だが、宝木は目を堅く閉じて、問いかけをいっさい拒絶していた。宝木は全身から大量の汗を出し、衣服はびっしょりと濡れていた。
 これでは埒があかない。わたしは宝木に解熱剤を処方した後、すぐに後藤家へと出かけた。
 寝間着姿のまま出てきた主人はわたしの表情を見てなにかを察したのか、顔を曇らせた。わたしは構わず、今回のことの顛末を話して聞かせた。
「宝木はおろか、わたしまで引きずりこまれそうになった。これ以上治療を続けるわけにはいかない。あなたの知っていることを説明してくれないか」
 わたしの剣幕がよほど異様だったのだろう、後藤家の主人は最初こそ、「はあ、さようでございますか」とはぐらかしていたものの、やがて観念したかのように重い口を開いた。
「宝木は、いわゆる女衒(ぜげん)をしておりました。小さな漁村や農村を回り、女を買いつけては繁華街の遊郭や、東アジアの娼館に売りつけるということを繰り返していたのです」
 主人が語ることには、ある時、日本海に近い農村に住む「ゆき子」という名の少女のうわさを聞きつけた宝木は、遠路はるばる農村へとおもむいたという。齢十五だったゆき子は村でも評判の器量よしで、吸いつきたくなるような白くて滑らかな肌と、切れ長の美しい目を持っていた。無類の口巧者(くちごうしゃ)であった宝木は、両親には工場で働かせるといつわって金を工面し、ゆき子を無理やり船に乗せて高く売り飛ばしたのだった。しばらくすると国の取り締まりの強化からたくさんの日本人女性が国へと帰された。
 当然、ゆき子も日本へと返され、久々に里へと戻れるはずであった。しかし、遠く異境の地で過ごすあいだに、ゆき子の色香はさらに増し、妖艶な魅力を漂わせていた。ゆき子に強く惹きつけられ、里に帰すのが惜しくなった宝木は、無理やり自宅の一室へとゆき子を閉じこめた。くる日も、くる日も、昼夜を問わず、ゆき子を散々弄んだのだという。
 そのうちゆき子は正気を失い、どこにいるかもわからない兄・磯吉の名ばかりを口にするようになった。時には組み伏せる宝木に向かって愛おしそうに磯吉の名を呼び、しっかりと抱きついてくる夜もあったという。
 すっかり精神が崩壊してしまったゆき子の扱いに困った宝木は、斡旋先でも一番安い女郎屋へと売り飛ばした。ゆき子が衰弱の末に病死をしたという知らせが宝木のもとに届いたのは、それからわずか半年も経たないころのことだったという。
 同時期に業界から手を引こうとして組に追われていた宝木は、菅南町の後藤家に身を隠すようになった。妹の非道な行く末に気づいた兄・磯吉が、宝木を探してまわっていることを本人が知ったのもこのころからであるという。
 宝木は菅南町へやってきてからというもの、舌の肥大の前にもいくつかの奇病を繰り返していて、本人も家人も、誰も彼もがすっかり精も根もつきはてていたらしい。
「赤松先生にお任せして、手前どもも随分と安心しておったのですが」
 主人はすべてを語りつくして気が抜けたのか、玄関先でからだを床に伏せ、「どうか今夜はこれで休ませてください」と頭を下げた。

 その翌朝、宝木が命を絶った。三倍にも四倍にも肥大していた舌を数時間かけて噛みきったであろう凄絶な自決だった。
 わたしはパイプに火をつけてソファへと腰を下ろした。
 あの穴はいったいなんだったのだろう。そして、宝木は穴の中になにを見たのか。何年も逃げ惑いながらも、なんとか生きながらえようとしつこく食い下がってきた鉄面皮の男が、穴の中のものをのぞいた途端に自決の道を選ぶとは。わたしは静かに煙を吐き出し、光の届かない湿った絶望の穴に突き落とされたゆき子と磯吉のことも思った。
 夜も深まったころ、玄関先で車輪の停まる音がした。チリリ、と鈴の音が響く。
 わたしはゆっくりと立ち上がり、戸口を開けた。
 そこには、拳を堅くむすんだ磯吉がじっとしてたたずんでいた。
「気の毒なことだった。わたしのせいで宝木を拐(かどわ)かしそこねたのだな」
 磯吉は笠を上げようともせず、やがて腰を落とし、踏み台を出して肩を差し出した。これに乗れば最後、二度と帰ることができないかもしれない。すくむ足とは裏腹に、わたしのからだは引きよせられるように磯吉と力車のかたわらへと寄っていき、磯吉のたくましい肩に片手を添えた。慣れ親しんだ、座り心地のいい座席に腰をおろす。
 力車は地面を滑り出した。小石を散らすわずかな振動が、腰から背中へと伝わる。一定の速度を保ち、角を曲がるときも速さを落とすことはない。
「磯吉、どこへ向かうんだ。昨日の穴か。宝木の身代わりに、わたしをそこへ呑ませるのか」
 震えが止まらない。わたしは目をしっかりと閉じて、覚悟を決めた。前方から、磯吉のぼそぼそと漏らしている声が流れてきた。
「子供んとけ、俺がゆき子をいじめるとゆき子は俺をにらんで、『くらい穴に呑まれてしめえ』と言えれん。いつも、いつも口にしえ。そうして、初めてゆき子に穴を開けたのは俺だ。ゆき子が十三の時だった」
 わたしは思わず息を呑んだ。バランスを崩し、あやうく力車から落ちそうになった。
「それは……。なんてことだ」
「ゆき子が出ていって気づいた。あいつを守ってやれるのは俺しかいねえのに、行方知れずにしてえんて。五年も必死で探して見つけた女郎屋で、おっちんだゆき子と、ゆき子にさんざん穴を開けた宝木のことを知てえんとけ、宝木が菅南町にいるかもしれえんと聞いてんとけ、俺はゆき子がここで、宝木を呑ませる、くらい穴を開けれんと信じた」
「そうしてくらい穴は開いたか。おまえがずっと待っていた」
 磯吉は静かにうなずいてわたしの方を振り返った。その時、気のせいだったろうか。ほんの一瞬だけ、磯吉が真っ白な歯をのぞかせた気がした。
 力車は加速し、町のはずれの袋小路へと近づいていく。その先には、昨日の大きな穴が開いていた。前のめりになって力車を引いている磯吉は黒い牛のようで、迷うことなく穴に向かって突進していく。
 からだ中を焼かれるような熱気に包まれ、指の先からじわじわと闇に塗りこめられていく。全身から血の気が引いていき、筋肉という筋肉がひきつった。
――助けてくれ!!
 穴に吸いこまれる瞬間、力車が大きく揺れてわたしは地面に振り落とされ、昨日痛めたばかりの腰をまたしたたかに打ってうめき声を上げた。土に顔をこすりつけ、何度も大きく咳をする。
 顔を上げた時には穴も壁も長屋も空もすべてが闇に包まれ、自分がたったひとり、世界に取り残されたように思えた。

 それ以来、菅南町の蕎麦屋の角に停まる力車の姿を見かけることはない。
 ただ、時おり路地のあいだを縦横無尽に駆け抜けたくなる時がある。その先にあるのは哀しくてくらい穴なのか、やわらかく身を包む穴なのか。無性にのぞいてみたくなる時がある。

 

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