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ドライバー 中島さなえ

 

vol.6 jinrikisha

 このところ何日も吹き降りが続いていた。それでも力車は速さを落とすことなく、豆腐屋の角を曲がり、長屋のあいだを抜け、人間が一人か二人やっと通れるほどの細い路地を駆け抜けていく。
 朱夏の夕暮れ。日に焼けて肉の盛り上がった車夫の上腕は汗雫と雨で黒くぬらつき、料亭の軒先に上がり始めた提灯のあかりを跳ね返している。その様を、ぼんやりと見つめる。幌屋根の先についた鈴がチリリと涼やかな音を鳴らし、うなるような曇天に一瞬の清涼を刻んだ。
 前の家から五分も経たぬ間に、力車は後藤家の入り口についた。踏み台が後ろから取り出され、足下に降ろされる。
「ごくろうさま」
 そう言葉をかけてゆっくりと腰を持ち上げ、石のように動きを止めた車夫の肩に片手を添えて力車から降りた。
「ここが最後なので、待っていてくれたまえ」
 車夫は笠を目深にかぶったまま、かすかにうなずいた。
 後藤家は宝暦元年以来の酒蔵であり、母屋を改装して酒屋を営んでいる有名な旧家と聞いている。出迎えた使用人に案内されて客間へと通されると、顔中が脂で光った小太りの主人が待ち構えていた。
「これは、赤松先生。雨の中よくおいでくださった」
「ねぎらいはけっこう。それよりご家族の容態は」
「いえそれが、せがれが今朝方まで発熱しておったのですが、幸いにも治りまして。せっかくですので手前もぜひ赤松先生にご挨拶をとお待ちしていた次第でございます」
 後藤家の主人は視線を右に左にせわしなく動かしながら、薄笑いを浮かべている。かすかに部屋の中に漂っている生姜のかおりがスッと鼻を突き抜けた。
「ただの風邪っぴきでわたしを呼びつけたわけですな」
 踵(きびす)を返そうとしたわたしに、主人はあわてて肉のついたてのひらを挙げた。
「後藤家は代々、菅南町を束ねる地主でもあります。幕府医官であられた名誉ある赤松家のご当主がわざわざ菅南町へ開業してくださったのですから、拝謁するのは当然。どうでしょう、手前が最近入手しましたスコッチウィスキーでも召し上がりませんか。珍しいところではブキャナンズのレアオールドもございますし……」
「とんだ無駄足だった。わたしは重病人しか往診はしませぬのでな」
 失礼する、と言ってふたたび踵を返した。なにやら背後で大声を上げている主人を顧みることなく廊下を突っ切っていく。部屋と部屋のあいだの廊下が妙に入り組んでいるので、途中で玄関口への通路を見失ってしまった。奥へ進んでいくと、部屋のふすまを開けて、膳を廊下へと押し出している中年の男の上半身が見えた。その様子に違和感を覚えたのは、膳に触れている右手にはたった一本の指、親指しかなかったからだった。男は押し出した膳から親指を離すと、一瞬だけこちらをうかがい見たが、すぐに部屋へと引っこんでしまった。生気のないうつろな眼も妙に印象に残る男だった。
 わたしは廊下を引き返し、何度か迷った末に玄関へと出た。
 車夫は出かけた時と寸分たがわない格好で力車の脇に控えていて、すみやかに踏み台を出して肩を差し出した。
「ありがとう。診療所へ戻ってくれ」
 一瞬ぐらついた後、座席が水平に保たれ、雨に濡れそぼつ路地へと滑り出した。膝にかけられた毛布の一面に、降りこんできた雨粒が綿毛のように付着していく。
 今夜、妻と娘は街へ流行りのオペラを観に行くと言っていた。診療所で久々にゆっくり調薬と資料あさりに没頭できるのだと思うと、先ほどの不快感もどこかへ流れ落ちていった。
 菅南町に移り住んで三ヶ月。家族がようやくこの下町に慣れ親しみ始めたことに安堵を覚える。
 貴族院での医師会法案をめぐる対立以来、すっかり人間不信になってしまった。街を離れて縁あってこの地へ移り住んだわたしを、医師会では「赤松が〝流れ〟の医師になった」と後ろ指を差しているらしいことは聞いている。
「かまわない」
 と、思わず独り言を漏らすと、車夫の太くてたくましい首がわずかに傾いた。
 この車夫、齢二十五でたしか名前は磯吉と言った。決まって診療所の斜め前の蕎麦屋の角に立っているので、いつからか、夕刻に三、四軒ほど往診する時の足にしたのだった。自分よりも二十も若く、抜け道にも詳しく、なにより口達者でないのがいい。たまに自分の話ばかりしたがる車夫もいるが、愚痴ばかりで緩急もなく、たいてい面白みがない。
 ほどなく診療所の前に着いて金を渡すと、磯吉は深々と礼をした後、車をひいて路地の向こうへと走り去っていった。

 後藤家に急患が出たという連絡を受けたのは、それから二週間あまりが経った八月の半ばだった。座敷に上がると、迷路のように入り組んだ部屋から部屋へと通され、一番奥の寝室に患者は寝かされていた。その患者、中年男の胸が激しく上下している。顔をのぞくと、舌がミカン大ほどに腫れ上がり、喉を圧迫していた。そのためほとんど呼吸困難にまで陥っている。
「これはひどい」
 わたしは患者の脈を取り、後藤家の主人を呼んだ。
「なぜ放っておいたのだ。わたしが初診ということかね?」
 額に大粒の汗を浮かべた主人は両手を落ち着きなくこすりあわせ、しかたなくといった様子でようやく口を開いた。
「ええ。ぬきさしならない事情がありまして、病院に行かせることもできなかったのです」
「こんな危険な状態だというのに。患者の名は?」
「うちの遠縁で、名は宝木と」
「往診ではとても間に合わない。紹介状を書くので、街の病院で診療を受けなさい」
「それは無理です。街からここへ来た本人自身が無理と申しておりましたので」
「どういうことだ」
 いぶかしく思いながらも、宝木という男の舌に応急で消毒剤を塗り、からだを横向けに安定させた。親指しかついていない右手と、どこを見ているのかもわからないうつろな眼は、先日廊下で見かけた男に違いなかった。
 後藤家の面々に、今夜入院の準備ができしだい診療所へ連れてくるように言い含めて、磯吉の力車へ戻った。
 座席に腰を落ち着けると、間をおかずに力車はユラリと動き出す。幌屋根に囲われた座席は視野が狭く、考え事をするにはうってつけだった。
 どんなわけありかは知らないが、無性に腹が立った。家人も家人であれば、いったいなにを考えているというのだ。
「あれは奇病だ。治るかどうかもわからん。いつから発症したのか家人にも不明などと、なんと馬鹿げた言い草だ」
 興奮が冷めず、車の振動を縫うように言葉を吐き出していた。聞こえているのかいないのか磯吉は答えず、梶棒を逆手に持ち替えて器用に操っている。
「磯吉、悪いが夜にさきほどの後藤家へ車を出してはくれんか。急患が出て、今夜からうちの診療所で治療をすることになった。患者は、宝木という名の男だ」
 突然、座席が上下に大きく揺れて停まった。虚をつかれ、磯吉を見やる。筋肉のついた背中を少し丸めて、かすかに上下させている。
「なぜ停まったのかね」
 上半身を乗り出して問いかけた途端、再び力車が大きく揺らいで、猛スピードで疾走しだした。あわてて幌屋根の枠を持ち、からだのバランスを取る。いつもの診療所への道順とは違い、右に左に力車は縦横無尽に飛ばしていった。
「どうした磯吉、どこへ行くんだ」
 磯吉は答えず、背中を丸めたまま五分あまり走り続けた。徐々に人通りも途絶えていく。菅南町の端まで行くと、そこは長屋と工場に挟まれた路地がうす墨色の壁にはばまれた袋小路になっていた。磯吉は力車を停めて袋小路を見つめ、二、三度大きく息をついた。
「ゆき子の、穴は開きえんが――」
 名を尋ねて以来久しぶりに聞いた磯吉の声は細く震え、耳をそばだてないと風に消されてしまいそうだった。
「ゆき子の、穴?」
 磯吉はわたしを振り向き、日に焼けた手の甲で笠を上げた。痩せこけた頬の上に盛られた二つの眼は射貫くように鋭く、口元に刻まれた皺は老人のようにも思えた。
「どういうことだ、ここはどこなんだ?」
 わたしは幌屋根の枠から手を離し、磯吉のかぼそい声をもっと聞き取ろうとからだを傾けた。
「穴はまだ開きえん」
 そう言ってうつむくと、磯吉は梶棒の上に腕をそえた。力車を上げて、元きた道をよろめくように引き返した。
 それきり、きつくしつこく問いかけても、磯吉はなにも答えようとはせずに黙々と走り続けている。診療所へ戻るまでのあいだ、磯吉の言葉を何度も座席の上で反芻してみたが、何事も思い当たるふしはなかったのだった。

 その夜、宝木が診療所へ運ばれてきたのは、夜半に近い遅い時間だった。後藤家の家人は人目を忍ぶように裏口から患者を運び入れ、散々礼をつくして帰っていった。
 あらためて診察すると、舌は白と黒の斑(まだら)状になっており、消毒剤が効いたのか腫れは夕刻よりもひいていて、宝木にもうっすらと意識があるようだった。
 わたしは陸軍軍医として従事している大学時代の友人に連絡を取り、彼の専門である口腔外科からの見解を仰いだ。しかし、舌の腫瘍の症例は多いがまだまだ治療法は確定していないとの返事だった。
 初日の夜は消炎鎮痛剤を処方して様子を見ることにした。治療が終わり、ひと息つこうと白衣を脱いでカーテンを開けてみる。すると、蕎麦屋の角に人影があった。必死で目をこらすと、そこには笠をかぶり前掛けをした磯吉がじっと動かぬままこちらを見つめている。
「おおい、なにをしている。もう帰っていいんだぞ」
 窓を開けてそう叫んでも、磯吉は微動だにしない。闇の湿気の中にただ自分の身をおいて、こちらを見つめている。
「勝手にしろ。客なんか通らんぞ」
 磯吉にそう言葉をかけると、わたしは窓のかぎをしっかりとかけた。
 翌日、宝木に麻酔を打ち、膿瘍している箇所を切開して膿を排出した。
 宝木は徐々に意識がはっきりしてくると薄目を開け、治療室の様子をしきりにうかがいみていた。この男からは病以外から来る腐臭のようなものがする。黄色く淀んだ目は胆石のうたがいもあり、専門病院への入院をうながしたが、宝木自身も後藤家もかたくなに拒むばかりで埒(らち)があかないことも、わたしを苛立たせた。
 宝木が診療所へ来て四日目。泊まりこみでの治療は続いていた。処方が終わり、窓のカーテンを開けて通りをのぞいてみる。
――まただ、今夜も。
 蕎麦屋の角に、磯吉が立っている。笠を目深にかぶり、短いがに股の脚で踏ん張るように力車の脇に立ちこちらを見据えていた。日焼けした裸の上半身に黒の前掛けをしめた磯吉は、打ち捨てられた銅像のようにも見えた。
 夜半で客も通らない通りに、なぜ毎夜残っているのか。往診の移動時に磯吉にたずねても、彼は決して口を開こうとはしないのだった。
「車夫の磯吉が見ている」
 寝台の上の宝木の肩がわずかに動き、首をかたむけて窓へと視線を向けた。
「あなたがここに来てからなぜか毎晩だ。あなたの名前を出した時も様子がおかしかった。町のはずれに全速力で力車をひいていって、挙げ句の果てには『ゆき子の穴が開く』とか、わけのわからぬことを口走っていた」
 それを聞いた宝木は目をひどく見開いて、腫れた舌をモゴモゴと動かし、起き上がろうとしては喉を押さえて何度も寝返りを打った。
 わたしは「安静にせい」と強く言って、宝木のからだを押さえにかかった。どうも様子が変だ。
「紙だ、紙に書け」
 と言って筆記具を胸に押しつけても、宝木は脂汗を浮かべたまましきりに首を横に振っていた。
 いったい、なんだというのだ。宝木に後藤家、それに磯吉、ゆき子。得体の知れないここ数日の出来事はまったく全貌が見えず、薄気味が悪かった。(後編に続く)

 

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