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ドライバー 中島さなえ

 

vol.2 stilt

 ティランカはそれから毎晩部屋の中で、イチゴのようにほっぺたを膨らませてバルーンに息を吹きこんでいた。最初は「首筋がキュウキュウ痛いの」と言って、ひとつのバルーンを膨らますのに五分もかかっていたが、そのうちひと息でバルーンを膨らましている様は、まるで機械のポンプの横にいるみたいだった。
「ねえパル、サムットが今日ね、『そのうち一緒にワルツを踊ろう』って言ったのよ」
「知ってる。ぼくだってすぐ横にいたもの」
「それにテントを一周できるようになったのよ。腰をかがめてテントの外にも出られるようになったし」
「知ってるってば、ティランカ」
「でもあと三週間で興行が始まるなんて信じられない。大砲のブッツなんて、練習してるところを見たことがないのよ。いっつものんびりテントの脇で昼寝して。きっと団長の部屋からお酒を盗み飲みしているのに決まってる」
 ブッツは、人間大砲というものはただ火薬の量を間違えなければ安全に着地できるものだと信じていて、観客からの惜しみない拍手喝采を毎回受けてきたことにあぐらをかいている。だから他の団員たちのように、ウォーミングアップもしなければ訓練もしない。昼間から酒を飲んで寝息を立て、団員たちに茶々を入れて回っているだけだ。
「ティランカ、コズウェが来るよ」
 足音とにおいを感じ、ティランカにそう告げてベッドから降りた。コズウェは日本人の一輪車乗りで、最近ティランカの部屋へ毎晩のように話をしにくる。ティランカより三つ年下だが、よちよち歩きの時からラタトゥサーカスにいるらしく、誰よりも事情に詳しい。ここには幼い頃から訓練されている子どもたちがたくさんいて、町の学校には通わず、教養を持つ団員たちが週に三回ほど宿舎の一室で勉強を教えているんだそうだ。
「ティランカ! 朗報よ」
 ドアを開けるなり、コズウェは宙返りをしてベッドへと飛び乗った。いつもこの調子で派手に飛びこんでくるので、このあいだは危うくからだを潰されるところだった。
「やっぱり好きだと言われたの、ラーマンに」
 元々吊り上がっている口の両端をさらに上げて、コズウェはやたらと耳に障る金切り声を上げた。
「言っていた通りだったね。よかったじゃない」
 ティランカが立ち上がり、コズウェの黒髪をそっとなでた。コズウェはいつも自分の話か、団内に流れる噂話しかしない。レッスンで自分が注意を払っていることや、現在誰が自分に注目しているか、どれくらい認めてもらっているかに常に気を配っていて、聞き上手のティランカにわざわざ報告へこないと気がすまない。ティランカが部屋にいないと、テントでも洗面所でもどこまでも捜しにくるので、最近はティランカも心得て、コズウェがやってきそうな時間には必ず部屋にいるように気遣っているのだ。
 ラーマンの話を三十分ほどで終えると、この晩のコズウェは珍しく、興味の矛先をティランカへと向けた。
「ティランカはどうなの? わたしが見る限り、高足サムットのことをだいぶ気にしているようだけど」
 ティランカのかかとがピクリと浮き、脈拍が早まった。
「そりゃあ、師匠だからね。ここへ来てから毎日教えてもらっているし」
「びっくりよ、ティランカ。わたし、あの陰気な高足があんなに生き生きとした表情を持っているなんて思っていなかった。普段から誰ともしゃべろうとしないっていうのに」
 コズウェはそれからたっぷりと時間をかけて、自分がこれまではぐれ者のサムットにどれだけ親切にしようとしたか、それに対してのサムットの気のない反応をいちいち細かく説明した。いい加減に聞き飽きて、ぼくはからだを起こし、開いたドアのすき間から廊下へと滑り出た。
 老朽化した木張りの床はところどころ浮いていて、踏みしめる度にギシギシと音を立てた。両側には団員たちの個室が並び、本を読んだりトレーニングに余念がなかったり、思い思いに過ごしていた。カップルの団員が裸で抱き合っている部屋を、息を詰めてのぞき見している子どもたちもいた。コズウェが言うには、どこのサーカス団も、団員同士でくっついたり離れたりという行為は当たり前で、「誰が兄弟姉妹か」という話題で年中盛り上がっているんだそうだ。でも、ぼくが仲良くなったライオンのバズーにそのことを話すと、「どうでもいいな」と鼻で笑い、石で牙を磨いていた。バズーの心の中を占めているのは、朝晩にいただく生肉の鮮度と、今のへなちょこブルーに代わって、優秀な猛獣使いがいつラタトゥへ派遣されてくるのかということだけだった。
 廊下をさらに進むと、団長の部屋からカサカサと紙のこすれる音が漏れ出ていた。これは団長が毎晩楽しみにしている金勘定で、興行が始まるとさらにヒートアップする。興奮し過ぎて、睡眠薬を使わないと眠れなくなるほどだそうだ。
 人や動物それぞれ、固執するものがまったく違っていて興味深い。そんなことを考えながら宿舎の一番奥へたどり着いた。床に備えられた地下室へと続くフタが少しだけ浮いていて、中から、菩提樹の木の皮によく似たサムットの体臭と、なにかの獣のにおいが漏れ出ていた。ぼくは鼻でフタを持ち上げて、顔ごと中へ突っこんだ。
 暗闇の中、階段を注意深く一段ずつ下りていく。下から一定のリズムで、「ギ、ギ」と木がこすれる音が階段を這い上ってくる。 「サムット、いるの?」
 ぼくは小さく声を上げて、階段を下りきった。バズーのからだ三つ分もない狭いスペースの中、こちらに背中を向けてサムットが座っている。物静かな高足は振り向いてぼくの姿をみとめると、「パル」と呼んで、自分の足下に来るよう指さした。
「なにをしているの?」
 サムットのもとに歩いていき、目の前に横たわっているものを見て、ぼくの両耳とひげがピンッと反り立った。それは、後ろ脚がぷっつりと切断された山羊の子どもだった。
「大通りに出て、車に轢かれたんだ」
 サムットはため息をついて、両手の木のくずを払った。「団長がバズーの餌にしようとしたから引き取ってきた」
「バズーは事情を知ればきっと、『こんなもの願い下げだ』って言うよ」
 ぼくはサムットの尖った顎を見上げて、舌をなるべく長く出して見せた。
「多少は苦労するが、義足を使えばまた歩けるようになると思う。筋肉が今ならまだ充分あるから」
 サムットはそう言って、横たわっている子山羊の腿に、削った添え木を当てて調べ、余分な部分をまた丹念に削り直した。ぼくはサムットに向かってしっかりとうなずいた。
「『サムットは獣の脚を自分の脚に縫い付けてる』って、バカな連中が噂してたよ。もちろん、ぼくもティランカも、絶対にそんなことはないって信じてたんだ」
「四本の脚でしっかりと地面を踏ませてやれる。這いつくばって一生を終えるなんて最悪だからな。できればこいつもスティルトに乗せてやりたいよ。空に近づけば、からだも心も悠々として、卑屈な思いだってきっと散っていく」
 サムットは自分の義足をナイフの端っこでカンッと強く叩き、彼には珍しく、かすかに唇の端を上げたように見えた。
 それからしばらく一心不乱に添え木作りを続けた後、サムットは何度かまばたきをし、今さら驚いた顔でぼくを見つめた。
「どうしてここに? ティランカは部屋にいるのか」
「コズウェと話してる。そろそろ彼女が引きあげる時間かな」
「もう戻るんだ。ティランカはきみを捜しているはずだ」
「ぼく知ってるんだ。ティランカは、サムットがいないとだめなんだよ」
「さあ、早く行くんだ」
 サムットに優しくお尻を叩かれて、ぼくはチラチラと子山羊を気にしながら階段を上がっていった。すっかりサムットに心を許している様子の子山羊はじっとして動かず、大きく深呼吸をして、やがて眠りに落ちようとしていた。

 その日はティランカが食堂で団長に捕まってしまい、ぼくは先にテントへ向かった。ラタトゥサーカスの開幕が近づいてきて、テントも宿舎も見違えるように活気づいていた。テントの脇には瓶ビールの入ったカゴを抱えた業者が出入りしていたし、座席を備える大工が何人もやってきた。アクロバットの若者たちは衣装合わせにはしゃぎ、あの怠け者のブッツでさえ、日に何度かは大砲に入って、テントの端から端まで自分の巨体を飛ばす練習をしていたのだ。
 いつものようにテントの一番奥の木箱の上に、サムットはひとりで座っていた。声をかけようとしてぼくはふと立ち止まった。サムットは、少し首を横に傾けて空中を見つめ、ゆっくりと両手を伸ばした。最初は腕の筋肉をストレッチしているのかと思ったが、どうもそうではないようだった。宙をかき抱くように両手を上げては胸の前でてのひらを合わせ、また両手を伸ばして胸の前で合わせという仕草を何度も繰り返した。まるでおまじないか、空になにか預け物をしていて、返してほしいとお願いをしているようにも見えた。
 その時、ティランカが急いでこちらへ向かってくるのに気づき、サムットはさっと両手を下ろして、脇に立てかけていたスティルトを手に取った。
「いよいよ次の日曜日だな」
 二メートルのスティルトを装着したサムットは、テントの天井をパンチしてティランカに話しかけた。ティランカの顔が急にくもり、サムットの足下に駆け寄って彼のスティルトをグイとつかんだ。
「サムットから、団長にお願いしてくれないかな。デビューの日をもっと遅らせてくれないかって。無理だと思うの。絶対にへまをするわ、わたし」
「そうなるかどうか、立って見せてごらん」
 サムットはティランカの両手を引っ張り上げると、二歩下がって腕組みをした。一メートルのスティルトをつけたティランカはゆっくりとその場を一周し、ポケットから赤と青のバルーンを取り出して可愛らしい口もとを開いた。
「ネズミと孔雀、どっちがいい?」
「孔雀」
 ぼくとサムットが同時に答える。ニッコリと笑ったティランカは二つのバルーンをあっというまに膨らませ、ひとつずつ曲げて輪っかを作っていった。少し不格好な孔雀ができあがると、前へかがんで、ぼくの顔の上にバルーンを落とした。
「おみごと」
 サムットがパパンッと手を叩いた。「きみは開始の曲が流れたら俺と一緒に会場へ出て、子どもたちに孔雀を作って回るだけだ。後は俺に任せとけばいい」
「でも、わたし」 「きっと音楽が流れたら、不安な思いもどこへやらだ」
 サムットはぼくらに目配せをすると、ベルトに差していた短刀を放り投げてジャグリングのウォームアップを始めた。ティランカはネットの支柱によりかかり、時折バルーンをいじりながら、芸をするサムットの手もとをじっと見つめていた。

 夏休みが始まり、ラタトゥサーカスが開幕になった。町を一周してきた鼓笛隊が子どもたちを連れて、テントの中へと入場する。行列は途切れることなく、大通りを越えて教会まで続いているのだという。
「こりゃあ入りきれん! 今日は三回公演にせにゃならんぞ」
 鼻息の荒い団長がぼくの目の前を走り抜けていき、楽屋からテントの裏口に入ろうとしていたティランカの足が止まった。ぼくは落ち着きなくあたりを見回し、宿舎の横にある牧場の中で、後ろ足に添え木をつけた子山羊が歩いているのを見つけて思わず歓声を上げた。  そして裏口の脇で、檻に入れられたバズー一行を見かけて尻尾を振った。
「バズーの兄貴、調子はどうだい?」
「俺たちは準備万端だが、猛獣使いのブルーが腹をこわした。まったく肝っ玉の小さい男だよ。あの様子じゃあ八分か九分が限度だろう。みんな、いいか! 火の輪くぐりが終わったら一気に六番の演目まで飛ぶ。今日の俺たちのショーは短縮版で行くぞ」
「へい!」
 クマや虎やニシキヘビが威勢よく答えた。バズーは相変わらず、頭の回転がよくて頼もしいリーダーだ。
「ねえ、ぼくらも早くテントに入ろうよ」
 ティランカのスカートの裾を強く引っ張る。髪飾りをつけて顔に白粉をはたき、頬紅と口紅をさしたティランカは、まるで西洋の貴婦人のように綺麗だった。それなのに彼女ときたら、買ったばかりの家が火事に遭ったかのように浮かない顔をしている。
「どうかしたの?」
「無理よ……。絶対に無理だわ」
 ティランカはカーテンのすき間から客席を見て、ひどく震えていた。ティランカに寄り添ってテントの控え室に入ると、プログラムナンバーワンのリウ姉妹が、黄色とオレンジの派手なレオタードを着てストレッチをしていた。五百人もの観客を詰めこんだ場内には、開幕のファンファーレが鳴り響いている。青いスーツを着てスティルトを抱えたサムットが、きびきびとした足取りで近づいてきた。ぼくのからだは自然に弾み、サムットの足下にまとわりついた。
「行こう、ティランカ。時間だ」
「行かない」
 サムットは立ち止まり、差し出した片手をゆっくりと下ろした。
「踏んづけたり、蹴ってしまったり。子どもに怪我をさせるわ。孔雀を作ったって、『こんなもの要らない』って投げ返されるわ。サムットのスティルトに蹴つまずいたり、きっと何度も転ぶわ」
「大丈夫だよティランカ。バランスさえ保てば」
「バランスバランスって、簡単に言うけどね! たった一ヶ月で、上手くできるわけがないわ」
 青ざめたティランカが全身を震わせて拳を握りしめ、スティルトで地面を叩いて放り投げた。
「きみはとてもりっ……」
「毎日野菜を洗っていただけの田舎者の娘に、人前で芸当ができるわけないって、ずっと考えてたの。サムットはいいよ、小さい時からバランスを取ってるんでしょう。目立ちたがり屋で、よっぽどショーが好きなんでしょうね。でもわたしは必要もないのに無理やり棒をゆわえつけられて、バカみたい! こんなのバカみたいよ!!」
 放り投げたスティルトは、ショーのためにピカピカに磨かれたサムットの足下に、かわいた音を立てて転がった。サムットは口もとを引き締め、息をつくと、ゆっくりと腰をかがめてスティルトを拾い上げた。
「わかった」
 金髪の髪をかきわけて、青緑色の澄みきった切れ長の瞳で、ティランカをまっすぐ見つめた。
「きみは出なくていい。俺から団長にも説明するから、なにも心配しなくていい。ショーを観ていくか、それも嫌ならパルと一緒に部屋で休んで」
 ぼくは必死でサムットのズボンの裾を引っ張ったが、サムットは出口まで早足に歩いていき、扉を開けて、もう一度だけティランカを振り返った。
「きみの晴れ舞台を心待ちにしていた。すっ転んだっていい。その時は誰よりも大きな声で笑ってやろうと練習していたんだ。ディキシーランドジャズに合わせて二人で足踏みをして、天井から見る満員の客席に圧倒されて、それを考えただけでも、胸が弾んだんだ」
 サムットはティランカのスティルトを壁へ丁寧に立てかけると、外へと出ていった。しばらくすると会場からドラの音とともにかけ声が聞こえ、二メートルのスティルトで登場しただろうサムットに雷のような歓声と拍手が沸き立った。ぼくはたまらず、両手で顔をおおったまま座りこんでいるティランカの足首を叩いた。
「ねえ、観にいこうよ」
「行かない!」
 ぼくはしかたなく、コズウェやラーマンたちと一緒に、控え室から客席へと出た。サムットは会場をおおいに盛り上げていた。ピンや短刀ばかりか、火をつけたボールまでリズミカルにジャグリングをして客席を熱狂させた。二メートルの足で場内を縦横無尽に駆けまわり、ビッグバンドの演奏に合わせてダンスを披露した。
 ファンファーレが鳴り、プログラム一番の空中アクロバットショーがスタートした。ブランコやシフォン、リングを自由自在に使って、空中で団員たちは美しい鳥のように舞った。猛獣使いのショーもバズーの仕切りで大成功をおさめ、クラウンは子どもたちの笑い声を一身に浴びていた。そのあいだもサムットは、見事なバルーン細工で泣いている子どもたちの涙を止めた。
 いよいよショーも終盤にさしかかったが、ティランカはいっこうに控え室から姿を見せなかった。気になって戻ろうとしたところ、大きなアナウンスが響いた。
「みなさまお待ちかね、当サーカス目玉の人間大砲をお目にかけます。塔の上から落としても死なない砲弾男・わたしたちの勇敢なブッツが、自らの背中を雑巾にして、あっというまにテントの天井掃除をいたしまあす!!」
 笑い声と大歓声の中、わざとらしく人差し指を宙に突き立てたブッツが、いかついゴーグルを装着して大砲の中にもぐりこんだ。たいまつを抱えた小男が大砲のお尻に火をつけると、大砲の前から後ろからモクモクと煙が吹き出した。
 小男は咳こんで一、二歩下がった場所から大砲の様子を見つめていたが、急にあわてたように裏口に向かって走り出した。
 煙は少しずつ濃さを増して黒煙になり、客席の前方へと流れていく。
「煙の様子がおかしいな」
 ぼくのそばにいた団員が張り詰めた声を上げる。いっこうに大砲から男が飛び出してくる様子がないので、客席は少しずつざわつき始めていた。大砲は煙を上げながら、プス、プス、とくすぶった音を立てている。裏口から見守っていたはずの団長が、「火薬の量……ど……」と声を上げながら、ぼくの前を勢いよく駆けていった。
 ドゥゥゴォォォーンッ!!
 耳鳴りがするほどのすさまじい爆発音とともに、大砲の中からブッツの巨体が吹き飛ばされた。もはや黒い塊にしか見えないブッツはテントの支柱にぶちあたって角度を変え、テントの天井を勢いよく突き破っていった。
 テント全体が激しく揺れて、会場内は一気に大パニックにおちいった。人が押し合いへし合い、我先にと出口へ殺到していく。支柱を失ったテントはミシミシと恐ろしい音を立てながらゆっくりと傾いていった。裏口から団員や動物たちも次々と避難をする中、客席の出入り口近くでひとり、テントの壁にへばりついている高足サムットの姿を見つけた。サムットはこの非常事態にスティルトを外すこともなく、観客が逃げ惑う頭上で、今にも客席へおおいかぶさろうとしているテントの天井をしっかりと支えていた。
「サムット、無理だ。崩れちゃうよ!」
 叫んだぼくの横を、もう一対のスティルトが馬のように速く駆けていった。小さなティランカは二メートルものスティルトを操り、サムットの横に並んで天井を支えた。天井は二人の手によってなんとか崩れるのを免れていたが、テントの奥側からどんどん倒壊している今、この出入り口の天井が落ちるのも時間の問題だった。ようやく、場内にいた観客と団員たちが外へ出た時、ぼくはテントの中に残された二人の足下にとどまっていた。二人の高足は寄り添うようにして、両手をまっすぐ上に伸ばし、テントの重みを一身に背負っていた。サムットは息も切れ切れに、「きみの言う通りだった」と言って、ティランカに顔を向け白い歯を見せた。「バランスを取るのは世にも難しい。ましてや、自分の足下も見えないっていうのに」
「無理だよ。背負っているものも、これじゃあ重すぎるわ」
 二人は次第に肩を震わせ、声を上げて笑った。テントがついに二人の頭上へおおいかぶさった時、サムットはティランカを胸に抱き寄せて、ゆっくりと後ろへ倒れていった。地面にサムットの背中が叩きつけられる瞬間、彼は自分の右手と右脚を高く掲げてテントを押さえた。スティルトが外れても、サムットのからだが動かなくなっても、右膝と右手だけはまっすぐに空へと掲げて、ぼくたちとテントのあいだにすき間を作った。外から、崩れ落ちたテントを見守っていた団長は、後にこう言っていた。「真っ白な海原の中に、小さな灯台が立っているようだった」と。

 バスはゆったりとすいていて、窓から心地いい風が入りこんできた。座席に深く腰掛けたティランカの腿の上に、ぼくはうずくまっている。ティランカはうたた寝をしていて、荷物の番はすっかりぼくにお任せのようだ。窓の外には懐かしい牧場や、勢いよく回っている水車が水しぶきを上げている。
 今でも時々、サムットの姿を思い浮かべることがある。テントの奥にある木箱の上に座った彼が、なにもない宙を見上げ、両手で空をかき抱くような仕草をしていた姿を。もしかしたら、人よりも少しだけ高いところに心を預けていたんだろうか。白い海原の真ん中に横たわったサムットはあの時たしかに、もう二度と離すまいとたぐりよせた、ティランカと自分の心を胸に取り戻していた。思い出す度に、ぼくは嬉しくてたまらなくなる。

 

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