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ドライバー 中島さなえ

 

Vol.1 miniboat

「陽太郎、テープが止まっているぞ」
 武雄の声に、目を丸く見開いた陽太郎がラジカセに手を伸ばした。テープが回り出し、ストリングスと管楽器の滑らかなイントロが再びあたりを満たした。
「じいさんは幸運な子供なの?」
「ああ、そうだ」
 武雄は煙草に火をつけると、空に向かってうまそうにふかした。「おまえのほうが恵まれているのかもしれんが。俺が子供の時は、船になんか乗る機会はなかった」
「ぼくはもう海ばかりで飽きちゃったよ」
 陽太郎がため息混じりにつぶやくと、武雄はハッと笑って陽太郎の小さな肩を軽くはたいた。
「俺は一年に一度しか海に出ないと決めている。こうして〝Georgia on my mind〟を流しながら太平洋沖に、出られるところまでボートを走らすという儀式だ。おまえもこの船に乗った縁で、つきあってもらわないといけないよ」
 陽太郎は嬉しそうに頬をゆるめてうなずいた。武雄がからだを伸ばして船尾に取りつけたエンジンをかけると、ヴィーンという稼働音が上がる。
 二人を乗せたミニボートは、穏やかな波を割って軽快に走っていった。


 ベースキャンプは想像をはるかに超えた巨大な施設で、ひとつの立派な町と言ってもよかった。敷地内には木造の宿舎や食堂の他にも、病院やPXというマーケットに、ジャズクラブまで備えられていた。
 入り口ではヘルメットをかぶったMPが常に警備をし、トラックやジープがひっきりなしに出入りする。中から降りてくるのは、軍服を着たアメリカ兵士だけでなく、髪を綺麗に巻いていたり、スーツを着こなしている日本人も混じっていた。
 俺はトレス少尉に連れられて、がっしりとした立派な造りの建物の廊下をどんどん進んでいき、奥の一室に案内された。そこには髭を蓄えた貫禄たっぷりの大男がいて、トレス少尉が時おり俺のほうを指さしながら熱心に話しこんでいた。幹部はいぶかしげな目つきで俺の頭からつま先までを何度も眺めた後、ひとこと「オーケイ」とだけつぶやいてデスクに戻っていった。
 最初に与えられた仕事は、食堂の床ふきと皿洗いだった。厨房を取り仕切っていたのはティモシー・ウッドという人のいい料理長で、トレス少尉とも気心の知れた仲だった。ウッドさんは英語を聞き取れない俺にもわかるよう、身振り手振りを交えながらゆっくりとしゃべってくれたし、仕事の段取りも丁寧に教えてくれた。
 ベースキャンプに住みこみで働くようになって一週間、俺はベッドと小さなテーブルのあるこぢんまりとした部屋を与えられて、毎日張り切って仕事についた。トレス少尉は食事が終わると時々厨房の中をのぞいて、皿を洗っている俺にニカッと人なつこい笑顔を残してくれた。ただ気がかりだったのは、トレス少尉が食堂を出ていくときまって、隅で食事を取っているグループがそれを目で追った後、顔を寄せ合って話しこんでいることに気づいたことだ。キャンプ内にも様々な思惑が錯綜していて、複雑な人間関係が築かれていることを、半人前の俺でもうっすらと感じていたんだね。
 そしてある日、食堂の中でひと悶着が起こった。
 昼食が済んで、食後のコーヒーもひと通り行き渡って食堂がすき始めた頃、
ひとりのブロンド髪の軍曹が息せき切って入ってきたんだ。軍曹はテーブルの上、椅子の下や食器置きの台などをくまなく見て回った後、声高に叫び始めた。
「俺のジッポがない! 消え失せた」
 と大騒ぎし始めたんだね。そしてあろうことか厨房の奥にいる俺のほうを指さして唾を飛ばしながら怒鳴っていた。
 時々「ジャップ」という荒々しい言葉が聞こえるばかりだったが、自分が怪しまれていたのは明らかだった。ウッドさんの説得もむなしく、食堂の真ん中に引っ張りだされてしまったんだ。からだの大きい、屈強な男たちに取り囲まれて、やせぎすの少年がどれほどおびえて縮こまったか想像してみてくれ。
 その時、騒ぎを聞きつけたトレス少尉が仲裁に入った。彼は俺をかばいながら軍曹をきつく諭していたが、軍曹や取り巻きの何人かが声を荒げてね。後でウッドさんに聞いた内容はこうだった。
「日本に発つ時、ママにプレゼントしてもらった大切なジッポなんだ。俺のイニシャルもちゃんと『S・J』と彫ってある。この小僧は泥棒だよ。散々俺たちの持ち物を漁ったあげくにキャンプから抜け出して、マーケットに流すに決まっているんだ。必死にかばうのはトレス少尉、あんたに日本人の血が混じっているからだろうが。俺たちはあんたを認めちゃいない。若いエリートだかしらんが、あんたには経験も貫禄も足りない」
 話はすっかりすり替わり、トレス少尉は一方的に罵られていた。唇をきつくかんで軍曹たちをにらみつけた後、俺の手を引いて足早に食堂を後にした。
 それから俺はどうしてもわからなくなって、ウッドさんに聞いてみたことがある。どうしてトレス少尉は俺みたいな浮浪児に、こんなに親身になるのかってね。ウッドさんはこう言っていたな。
「トレス少尉のグランドマザーは日本人だ。彼は小さい頃から日本のことを聞かされていたし、いつか行ってみたいと思っていたそうだ。よりにもよってこんな焼け野原で敵と味方で、彼は罪悪感にさいなまれていたよ。きっとタケオのことを、分身みたいに思っているんだろうさ」


「俺が分身だなんて、とんでもない。ほど遠いよ」
 武雄はそう吐き捨てた。
 いつのまにか、少しずつ陽が落ち始めていた。陽太郎は膝の上に抱えていたトランペットを下ろし、カセットデッキのボリュームを少しだけ上げた。
「ぼく、この曲知ってるよ」
 明るく放った陽太郎の声に、武雄は思わずクーラーボックスから腰を浮かした。
「まさか、そんなわけがあるかい。これほど古いナンバーを?」
「ずっと昔から色んな船に乗ってるから。ずいぶん前、多分、何十年も前によく聞かせてもらった。だからぼくも懐かしい」
 陽太郎がニッコリと笑うと、武雄はボートのへりに寄りかかって、思い切り笑い声を上げた。
「おかしなことを言うもんだ。おまえ面白いな。確かにその曲には不思議な魅力がある。一度聞いたら絶対に忘れることはできない」


 ベースキャンプに来て二年が経ち、俺は十五歳になろうとしていた。その頃にはすっかりウッドさんにたたきこまれて、厨房の中のありとあらゆる仕事を任され、英語もわりかし使いこなせるようにもなっていた。
 キャンプの中のことはたいてい知っていたし、日々の生活にも不満はなかった。ただ、当時の俺の心をどうしても惹きつけてやまなかったのが、夕食後に開店するジャズクラブだ。
 十五歳になった九月の晩、俺は仕事が終わった後、部屋に戻るふりをして、ジャズクラブのある建物に吸い寄せられるように近づいていった。半開きになったドアから中をのぞくと、濃い木張りの壁の奥には立派なステージがあって、赤いビロードのカーテンがかかっていた。天井にはアメリカ国旗とインテリアライト。バドワイザーやコークで乾杯をした兵士たちが、生バンドの演奏するスウィングジャズやポップスに合わせて踊り、盛り上がっていた。とてつもなく豪勢で、魅力的な場所に思えた。
「だめだ、ここは入れないよ」
 突然行く手をふさがれて、何人かの若い兵士がドアの前に立ちはだかった。
「そんなこと言わないで、頼むよ。今夜は誕生日なんだ」
 少し震えてしまう俺の発音の悪い英語に、兵士たちは酒くさい息をついて首を振った。
「だめなものはだめだ。大人が楽しむ場所だからな」
「あきらめて部屋に帰るんだ、ボーイ」
 部屋に戻った少年の心がどれだけ沈んでいたかわかるか? 
 その時、ノックの音が聞こえて、ドアの下から一通の紙が差しこまれた。ランプをつけて紙を拾い上げると、メモノートに走り書きでメッセージが記されていた。
〝タケオへ さっきの騒ぎのことを聞いたよ。早朝五時、ジャズクラブにおいで〟
 癖のあるアルファベットはトレス少尉のものに違いなかった。俺は踊る胸を必死でなだめながら眠った。
 そして翌朝、まだあたりが薄暗い中、部屋を抜け出して、ジャズクラブに駆けこんだ。
 バーカウンターにライトがついて、レコードプレイヤーの横にトレス少尉がまっすぐ立っていた。プレイヤーが動き出して、スピーカーからゴージャスなイントロがホールに流れてきた。弾むようなベースライン、川のようにそそぐストリングス。厚く重なるホーンズのシンフォニー。そしてホーギー・カーマイケルの人生を謳歌するような素晴らしく心地よい歌声。トランペットのいたずらをしているようなユニークなソロにバイオリンの高音が重なり、力強いトロンボーンソロが続く。
 俺は夢中で、スピーカーの下で音を浴び続けた。気がついた時は、ステージに腰掛けたトレス少尉が笑いながら俺の名を呼んでいた。
「気に入ったか、タケ。〝Georgia on my mind〟。俺の一番大切な曲だ」
「ジョージアって、トレス少尉の住んでいた場所だよね!」
 俺はステージに駆け寄って、トレス少尉の隣に座った。
「そうだ。俺はアトランタで生まれ育った。海なんか見たこともないくせに、憧れて、憧れて、憧れが強すぎてそのまま海軍に入ってしまったんだよ。言っておくがな、タケ。海の上で聞くこのナンバーは最高だ。おまえもいつか自分の船を手に入れたら、海の真ん中で流してみるといい」
「俺の船なんて、夢みたいだなあ」
「おまえはきっと成功する。俺が保証してやる」
 トレス少尉は分厚い手で俺の頭をグイグイとなでて立ち上がった。「タイムアウトだ。うまく部屋に戻れよ」
 トレス少尉はバーカウンターの灯りを消して、手を挙げて部屋を出ていった。俺はステージの上をひとっ走りしてドラムセットをなで、急いでジャズクラブを抜け出した。部屋に戻って毛布にもぐりこんでも、〝Georgia on my mind〟が頭の中をグルグルと回り続けていた。
 それから二年して、朝鮮半島がきなくさくなってきた。トレス少尉を含め、士官たちの何人かは本国に呼び戻されることになったんだ。
 トレス少尉がベースキャンプを発つ前の夜、ウッドさんのはからいで、俺が作ったビーフシチューを初めて少尉に食べてもらうことができた。強めに塩こしょうした牛肉に小麦粉をもみこむ。フライパンに牛脂を溶かしてニンニクを入れ、肉を少しずつ入れて褐色になったら、煮こみ鍋に移す。タマネギをたっぷりのバターであめ色になるまで炒めて、鍋にジャガイモとニンジンとワインを入れてアルコールを飛ばす。特製のスープで二時間じっくり煮こんだ、ウッドさん直伝の自信作だ。
 トレス少尉がスプーンですくったシチューをゆっくりと口に運んだ。横に立っていた俺は、息をつめて少尉の口もとを見つめていた。トレス少尉は黙ったままスプーンを置いた。そしてためいきをついて俺の顔を見上げた。
「こんなうまいシチューは国でも食べたことがないよ!」
 俺は心の中でガッツポーズをしたね。トレス少尉は大喜びで、それから二杯もお代わりをしてくれたな。
「タケ、今度日本に戻ってきた時も、おまえのビーフシチューでもてなしてくれ」
 そう言ってグリグリとなでた俺の頭は、小柄なトレス少尉の背をとっくに追い抜いていた。
 トレス少尉が本国に帰ってからしばらくして、俺は十八でベースキャンプを出た。キャンプの厨房で身につけた調理の経験を頼りに、飲食店で腕をみがきながら必死で金を貯めて、二十代も後半にさしかかったころ、ようやく自分の小さなレストランを持つことができた。店ができた時、キャンプにいるウッドさん宛に手紙を出した。トレス少尉が戻ってきたら、樋口武雄の近況とこの店の場所を伝えてほしいと頼んでね。
 ウッドさんからの手紙は返ってきたものの、少尉の配属先はキャンプではわからず、あれから横須賀にも戻ってきていないということだった。ずっと気がかりだった。年月を経たからこそトレス少尉に伝えたいことは山ほどあったからな。
 あれは東京でオリンピックが開催された年だった。東京に姉妹店を出す話が持ち上がって、店をチーフたちに任せて一週間ほど出張することがあってね。横須賀に帰って店に戻ると、チーフが寄ってきて言うんだ。「店長を訪ねてきた外国人のお客様がいらっしゃいました」とね。俺はまさかと思い、チーフにたずねた。
「名前は聞かなかったのか」
「お聞きしたのですがおっしゃいませんでした。しかし、シチューを三杯も食べて帰られました」
 その瞬間、胸がひどく高鳴ったね。ついにトレス少尉が日本に帰ってきたんだと。それからすぐにキャンプに連絡を取ってみたものの、トレス少尉はその二日前にベトナムへ発った後だった。
 その翌年にキャンプから連絡が入ってね。トレス少尉が戦線で散ったと。


 武雄は六本目の煙草に火をつけて、ニッケルシルバーのジッポの蓋をカチッと閉じてつぶやいた。「人の物にかぎって長持ちするもんだ」そうして蓋に彫られた文字を陽太郎にかざした。
「ほら見ろ、『S・J』。ここにブロンド軍曹のイニシャルが彫ってある」
 陽太郎が「あっ」と叫んだまま、口をあんぐりと開いた。
「身よりもない、帰る場所がない。あの時はそう開きなおっていたから、盗みでも裏切りでもなんでもできた。想像することができなかったんだよ、まさか自分に大切に思える人ができるなんて」
 武雄が陽太郎のひざにジッポを置いた。おっかなびっくりジッポを手に取った陽太郎は、蓋をそっと開けて、好奇心いっぱいにフリント・ホイールのにおいをかいだ。
「そう、俺には想像力がなかった。俺はこういう人間だから、結局この歳になっても他人を信用することができなかった。金や地位がありゃあ、自然と人は寄ってくるもんだ。でもトレス少尉は違った。ただ生きているだけの人間に手をさしのべようなんて者は、そうそういるもんじゃない。もし俺が少尉に拾われずに町で好き勝手していたとしたら、まあ、のたれ死ぬか、生きていてもろくな人間にはならなかっただろう。そう気づいたのは、トレス少尉がいなくなって何年も、何年も経ってからだ」
「それなら、じいさんはトレス少尉に会えてよかったんだね」
 陽太郎ははしゃいだ声を上げて、武雄の顔をのぞきこんだ。
「自分の船と言ってもこんなちっぽけなボートだが、年に一度、少尉の命日に太平洋でこの曲を流す。でもこうして海に出るのも今年で最後だ。もうからだが思うように動かないからな。さあ、そろそろ港へ戻る時間だ」
 武雄は煙草をもみ消して、ふと顔を上げた。「陽太郎、またテープが止まったままだ」
 陽太郎はラジカセの脇にかがみこんだ。武雄や陽太郎が何度スイッチを押しても、〝ガガガ〟と音を上げるばかりでカセットは回らない。
「ああ、潮風で壊れてしまったかな。少尉に、最後に聞かせてやりたかったんだが」
 しかたがないな、と言って武雄は息をついた。
 すると、あたりに乾いたトランペットの音が響いた。いましがたまで聞いていた〝Georgia on my mind〟のメロディがたどたどしくなぞられ、ゆっくりとリフレインされた。
 武雄は「ほお」と興奮気味に声を上げて、「上手いぞ、陽太郎。最高にいい」そう言って顔をほころばせ、クーラーボックスにもたれて目を閉じ、美しいメロディにすっかり聴き入った。
 やがてトランペットの音が止んだ。目を開けると、そこに陽太郎の姿は跡形もなかった。気がつけばあたりは波ひとつ立っていない海をたどった先に、茜色の飛沫を散らしながら、もうすぐ太陽が沈もうとしていた。

 

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