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ドライバー 中島さなえ

 

Vol.1 miniboat

 古いラジカセのスピーカーからホーギー・カーマイケルの軽やかな歌声が流れていた。歌声はさざ波のあいだをただよい、しばらくすると無数の泡しぶきとなってあたりに溶けていった。
 ボートの上でうたた寝をしていた樋口武雄は、カチリとテープの止まる音でゆっくりと瞼を開いた。いつのまにか頭上に陣取った太陽が武雄の全身をジリジリと照りつけている。七十になってから生まれて初めてたくわえたあご髭をさすると、「よっ」と掛け声を上げて船底から上半身を起こした。
 武雄を乗せた黄色のミニボートは波にまかせて少しずつ沖へと流れていた。額をタオルでぬぐい、脇にあるラジカセのスイッチに手を伸ばした。

 Georgia, Georgia, the whole day through
 Just an old sweet song keeps Georgia on my mind.

 魚一匹かかっていない釣り竿を引き上げにかかる。それが終わると、ボートのへりにもたれ、テープに合わせてメロディを口ずさんだ。武雄の歌はまるで調子っぱずれだったが、からだをゆったりとゆすり、いたって上機嫌で一曲を歌いきった。
「少し走らすか」
 波間を見つめてつぶやくと、武雄は船尾のエンジンを振り返った。その途端、「ほお」と間抜けな声を上げて、持ち上げかけた尻を腰掛板にストンと落としてしまった。船尾に置いていたクーラーボックスの上に、見知らぬ少年が背中を丸めて座っている。少年は武雄のことなどまるで気にとめず、細い脚のあいだにトランペットをはさみ、持ち上げたり下ろしたりして遊んでいた。ビー玉のように丸くて大きな目を武雄に向けて、不揃いに切られたボサボサで水気のない髪を風になびかせている。
「どこの子だ。いつのまに乗ったんだ」
 動揺している時の癖で少し震えたような声を出し、武雄はタオルを口に当てて何度か咳払いをした。荷物を積んでいた時にひょっこりと忍びこんだのだろうか。武雄は少年の持ってきたトランペットに目をやり、「浜の子か?」と聞いた。少年はなにも答えずに、白くて小さな顔を沖に向けた。
「聞かれたら返事をするんだ。名前は?」
「ようたろう。太陽をひっくり返して、陽太郎な」
 陽太郎は聞き取りにくいかすれた声を上げると、両方のてのひらでボールを持つように円を形作り、それをぐるりと回転させてみせた。
「家の人は? 港に一緒にいたのか?」
 陽太郎がゆっくりと顔を横に振る。白いシャツに紺色の短パンをはいて、小柄な陽太郎の姿はどうしたって十歳そこそこにしか見えない。きっと港で走り回っているうちに、親とはぐれたんだろう。武雄は「困ったな」と息をついた。
「父さんも母さんも、向こうの大きな船にいる」
 陽太郎は沖のはるか彼方を指した。
「そんなわけがあるかい、おまえみたいな小さい子を置いて。それとも親たちが旅行中で、羽根を伸ばしているのは実は息子のほうだって寸法か」
 武雄はハッと笑って、船尾に向かって腕を伸ばした。「立ちなさい。水を取りたいんだ」
 陽太郎はトランペットをつかんでクーラーボックスから立ち上がり、もう片方の手を伸ばして武雄の手を握った。腰掛板に陽太郎を座らせて、今度は武雄が船尾に移動した。冷たい水を喉に流しこみ、どうするべきか考えを巡らせた。今日は一年にたった一度と決めている、海へと出る日だ。しかも今年で最後にしようと思っていたのに、いたずらの過ぎる子どもひとりのせいで計画が台無しになろうとしている。武雄は力なく肩を落とすと、胸ポケットから煙草を取り出して火をつけた。
「本当は出られるところまで沖へ出て夜更けに戻るつもりだったんだが、すぐに引き返さないとな」
 陽太郎は首を横に振り、さっきと同じようにまっすぐに沖を指した。
「引き返さずに、このまま父さんと母さんの船を追ってよ」
「そりゃあ無理な話だ。こんな頼りない船じゃあ、沖合へ出てもたかがしれてる。このオンボロ船を選んだのがおまえの運のつきだ」
 武雄がのんびりと言っている間にも、陽太郎は水平線の向こう側をのぞこうとでもするように、さらにボートから身を乗り出した。今すぐにからだを押さえてやらないと、そのまま海へ落っこちてしまいそうだ。
「わかった、わかったよ。頑固なやつだな。じゃあこのまましばらく走らせてユーターンをして、夕方には港につける。そうしたらすぐに家へ連絡を取る。いいな。実を言うと俺もこのまま引き返したくない。今日は大事な日なんだ」
 武雄は煙草を足で踏みつけ、チラリと陽太郎を見やった。「陽太郎、だったか。そんなに細っこいからだでトランペットをやるんだな」
 薄くなった頭にキャップをかぶり、武雄はゆくりない同乗者を見やった。陽太郎が足を動かす度に、トランペットのベルが光を跳ね返して武雄の顔を照らす。
「前はぼくの物じゃなかったんだけど、団長にもらったんだ」
 なるほど、と言って武雄はうなずいた。
「俺は横須賀で育った。日本で初めてのマーチングバンドが生まれた町だから、毎年大会があって、全国からバンドやバトンが集まる。おまえもペットをやるなら、一度見ておいたほうがいい」
 陽太郎は返事をする代わりにマウスピースを口に押し当て、「プププ」と笑いをこらえたような音を出した。同時にカセットがカチリと止まり、武雄は唇の片端を上げた。
「船に乗せてやる代わりに、大事な仕事をやろう。カセットが止まったら、その度にスイッチを押すんだ。いいな?」
 陽太郎は武雄に教えられた通り、カセットのスイッチを押し、興味津々でカセットのケースを何度もなでた。
「このテープには同じ曲しか入っていない。〝Georgia on my mind〟という昔のスタンダードだ。多分、おまえの父さんも母さんも知らない」
「どうして同じなの?」
 陽太郎がかすれた声を上げると、武雄は「人に聞かせるための曲だ」と答えて、ゆっくりとクーラーボックスにもたれかかった。「暇つぶしに話も聞くか?」
 陽太郎は答える代わりにまた「プププ」とマウスピースから間抜けな返事をした。


 ひどく昔の話だ。大戦が終わった横須賀の町で、十三歳の俺はひとりで生きていた。いたるところにマーケットと呼んでいた闇市ができて人があふれていたころ。空き地だった場所にもあっというまに、早い時は一晩でバラックや露店が乱立する。大人たちはたいてい国民服か軍服にカバンを持って、鳥打ちやパナマ帽なんかをかぶっていた。背広に立派な靴をはいていたヤクザ者も闊歩していれば、学生服姿の青年もいて、一家の買い出しにかり出されていた。
 マーケットには命を繋いでいくためのありとあらゆるものが揃っていたんだ。白米や豆や代用パンはもちろん、ワイシャツ、干し柿、鍋、密造酒のバクダンやカストリ。残飯シチューにカレー、焼きとうもろこし、リンゴ、魚の皮で作った革靴、タバコ巻き器にパン焼き器。とにかくなんでもござれだった。あたりには醤油やゆでたひよこ豆のたまらない香りに、革や炭や油のにおいもごちゃまぜになって漂っていた。たくさんの看板が上がり、前から後ろから売り文句が叫ばれて、いたるところで湯気が立ち上る中で、荷物を抱えた人間がひしめき合っている。マーケットとは別に、スーベニアと呼ばれていたアメリカ兵相手の土産物屋もあった。アメリカ兵が持ちこんだパラシュートの生地に刺繍を入れたジャンパーが土産に大流行して、これは飛ぶように売れていた。
 俺の家は金物商だったが、空襲がひどくなって、俺ひとり遠縁の家をたらいまわしにされて、戻ってみたら家も家族も魔法みたいに消え失せていた。自力でなんとか食っていくしかないとすぐに理解した。
 当時は俺みたいな浮浪児がいたるところにいたんだ。親方のもとでせっせと真面目に靴磨きをしている子もいれば、悪いやつらはかっぱらいや盗みなんかをして徒党を組み、しれっと盗品を集めて売っていたもんだった。
 俺は駅前の新聞売りの手伝いをしばらくした後、シケモク売りをした。駅やマーケットの周辺を回って、地面に落ちている吸い殻を拾って歩く。それをひとつひとつバラしてほぐし、紙に巻き直す。シケモク五本拾円にして売り歩いていた。家は橋の下に壊れた看板を集めて作った掘っ建て小屋。人が動き出す頃に起きて、朝一の吸い殻を拾って歩く。だいたい十二、三本も見つかれば、一本のシケモクを作ることができた。
 シケモク拾いにとって割りがいいのが、駅前やスーベニアの周りでアメリカ兵たちを待ち伏せして、彼らの後ろをついて歩くことだった。彼らは俺たちの町にも、買い物やお気に入りの商売女目当てで、横須賀の基地から列車やジープに乗ってやってきた。彼らは集まってくっちゃべっている時なんかはのんびり煙草をやっているから、吸い終わって放り投げる端から拾っていく。時にはあからさまに嫌な顔をされて追い払われることもあったが、たいていは小汚い小僧ひとりがついてこようが気にとめちゃあいない。彼らの放るラッキーストライクやキャメルの吸い殻で作ったシケモクは人気で、市場でもよく売れた。
 そのうち、俺はひとりの若いアメリカ兵の顔を覚えた。彼は名前をエルバート・トレスといって、横須賀ベースキャンプに駐留している海軍の少尉ということだった。トレス少尉は、いつも駅から後ろについてくる俺のことに気づいていて、ずいぶん残りの多い吸い殻を放ってくれた。時には新品のキャメルを一本地面に置いて、白い歯を見せて目配せしてくれることもあった。人がよくて気前のいい軍人さんだと目をつけて毎日駅前に張りこんでいるうち、どんなに大勢の人間が駅から流れ出てきても、すぐに人波の中のトレス少尉を見つけることができるようになっていった。
 黒くて短い髪に日焼けした小さな顔、細長い目と大きな口はよく動き快活に笑う。背は低めで、軍服の袖からたくましい腕がつきだしている。仲間といる時は発音のきれいな英語を使っているが、マーケットでは流暢に日本語をしゃべる。時々仲間の通訳をかってでて品物を選んでやることもある。服を替える金もなく汚れている俺を見てトレス少尉は、「仕事はどうだ」「腹はいっぱいか」と大きな声で話しかけてくれることもあった。
 ある日、マーケットの真ん中でカバンを盗られた。町でも見覚えのある、たちの悪いかっぱらいの浮浪児集団だ。俺は必死になって追いかけた。集団はちりぢりになって俺の追跡をかわしながら、人の流れを押し分けて走っていった。マーケットを出たところでようやく集団に追いつき、思い切りやつらの足を蹴飛ばしてやったんだ。浮浪児たちは「わあっ!」と声を上げて、カバンを放ったまま逃げていった。
「グッジョブ!」
 突然上がった拍手に驚いて振り向くと、トレス少尉が真っ白な歯を見せて人のよさそうな笑みを浮かべ、俺に向かって惜しみなく手を叩いていた。少し後ろには、派手な化粧をした商売女を連れた兵士たちがカフェの前で笑い声を上げている。こっちは生きていくのに必死だっていうのにさ、いいご身分でいやがると腹が立ったね。
「そんなに褒めてくれるんなら、煙草、くれよ」
 わざと顔をしかめてにらみつけ、ぶっきらぼうに言って手を差し出すと、トレス少尉は少しのあいだ驚いたように俺を見つめていた。
「オーケー。もちろんだ」
 トレス少尉はゆっくりとうなずいて、胸ポケットからラッキーストライクを取り出した。姿勢のいいしっかりとした足取りで近寄ってくると、箱ごと俺の手に握らせた。あっけにとられて突っ立っているうちに、トレス少尉は片手を大きく挙げて人混みの中に消えていった。
 翌日、仕事が終わって橋の下の小屋に帰ると、あたりには木の破片やトタン板が散乱していて、小屋は跡形もなくめちゃくちゃに壊されていた。浮浪児たちに仕返しにやられたのか、たまたま狙われたのかもわからない。ためていた芋や小豆、鍋や食器などの日用品もすっかりなくなっていた。俺はどうしていいかわからず、しばらくその場にひざまずいて小屋の残骸を力なくひっくり返していた。その日は残飯を漁った後、カバンを抱えて地面にまるまって眠った。
 それから数日が経った。少尉はその日駅に姿を現すなり、自分から手を挙げて俺のほうへとやってきた。
「ベースキャンプに仕事がある。来るか?」
 と誘ってくれたんだ。俺は喜んでついていくことにしたよ。こんな場所はもうこりごりだ。脱出してやる! と心の中で息巻いていたからな。
「いいぞ、決まりだ」
 パンッと威勢よく手を打って、トレス少尉は俺の顔をのぞきこみ、顔についた汚れをハンカチでゴシゴシと拭ってくれた。それからマーケットを回って俺のために服や身の回りの物を一通り買い揃えてくれたんだ。俺は荷物を持ってトレス少尉と一緒に駅へ行き、そのままベースキャンプへとついていった。いつも人が窓からはみだすほどすし詰め状態の列車だが、初めて乗った米軍専用車両はすいていて座り心地も快適だった。俺は一気に有頂天になったね。自分は浮浪児の中でもひとり、特別な道を与えられた幸運な子供なのだと。

 

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