RENZABURO

坂下あたると、しじょうの宇宙 坂下あたると、しじょうの宇宙

試し読み

燃ゆる漏斗の形せる、紺青の空をぶちのめす。

アルチュル・ランボオ

「ヒョッ!」

 みたいな声がでた。

 自分の名前を見つけた瞬間だった。

 授業に遅刻して、書店に寄っていた。朝弱いおれは、制服をちゃんと着て、一応顔も洗って適当な身支度をすませ、家から出かけたという意識を失っている。いつの間にかいまここにいる、という感じだった。

 まるで空中遊泳しているみたい。

 午前ちゅうはいつもそうだ。なにが起きても、記憶すら覚束ないのに、あとから回想しようとすれば、おぼえていることはちゃんとおぼえている。昨日理科の授業の一環で、クラスの皆で校庭を“フィールドワーク”して、夏の草花を眺めながら散策したこととか。

 その一瞬の風のぬるさとか。

 心地よさとか。

 地元の書店は、もしおれがあと十人もいたら、満杯になってしまうだろうというぐらいのスペースしかない。立ち読みしているときとか、いつも想像する。あと十人のおれが、この書店にいっぱいになって、だけど、十人はそれぞれ違う本を立ち読みしているから、あたまのなかはべつの宇宙でいっぱい。宇宙×宇宙で、ぐわーってなって、ぐるぐるする。最高に気持ちわるいような、最高に気持ちいいような、その境界はいつだってあいまいなんだ。

 立ち読みしていた『現代詩篇』の誌面、「今月の投稿欄」の「選外佳作」の欄に、おれの名前があった。

「佐藤ダブリス」

 おれのほんとの名前は佐藤毅だけど。

 それと、おれの投稿していた作品名。

「シュワシュワ」

 とにかく、おれは朝のうつろなあたまのなかで、それでも最大限期待していたけれど、それでも現実はまだあたまのなかに定着していない。夢のつづきだ。これは夢のつづきなんだ。だけど、ソワソワしてしまって、本を閉じて、棚に仕舞って、もう一回みて、やっぱり、

「佐藤ダブリス シュワシュワ」

 と書いてあって、やっぱ閉じて、も一回みる。えんえんくり返した。

 おれはそのとき、いつもの想像じょうでこの書店を埋め尽くしていたおれが一瞬でこの場所に収束したような、奇妙な浮遊感をおぼえた。

 おれが、おれに還ってきた!

 そんな感じ。そんなことって、感じたことのないへんな気持ち。ボンヤリしたあたまで一度書店をあとにし、我にかえってもう一度書店にもどり、もう何回目になるかわからない自分の名前を確認し、『現代詩篇 八月号』をレジに持ってって買った。

 べつに、詩人になりたいわけじゃない。

 だけど、おれにだって、なにかあるんじゃないかとおもった。

 詩っていうのはふしぎなもので、自分になにかがあるんじゃないかとおもって書けば書くほど、自分になにもないってことがわかってくるものだけれど。自分の空洞を見せつけられるみたいに。

 期末試験が終わったばかりで、テストが返ってくるまでにあと数日挟む、高二のこの時期の教室は世界史の先生いわく「世界で一番平和」らしい。

 三時間目のはじまるあたりで、後方のドアから教室へ入ると、クラスの窓際から二列目、前から二番目の席に坂下あたるはいて、バッチリ目があった。おれは、顔がにやけそうになりながら、必死で舌を嚙んでごまかし、「おう」という口だけつくって、自分の席に座った。あたるも「おー」という口をした。廊下から三列目、後ろから二番目の自分の席。

 坂下あたるはスゴイヤツだ。父親が詩人兼翻訳家、母親も翻訳家で、あたる自身も小説を書いて新人賞の三次選考に二回も残っている。まだ十七歳なのに。詩も書く。『現代詩篇』の投稿欄においても選外佳作とかじゃなくって、四、五回は詩が載ったこともある。それに批評も書くし、短歌も書く!

 いまあたるは新興の小説投稿サイト『Plenty of SPACE』に夢中で、公募新人賞用の小説や詩を書きながら、熱心に文章を投稿していた。

『Plenty of SPACE』はいまや読書家のあいだに浸透しつつある小説投稿サイトとしては後発のほうだが、ラノベ系やファンタジーに席捲されている他サイトと異なり、文学や批評にある程度真剣な層を集めることで他サイトとの差別化を図っていた。あたるも『Plenty of SPACE』では主に短い小説や批評やエッセイを載せては好評を博している。サイト内の「虚星ランク」(読者の反響の大きさでつけられるランキング)ではランク七位に入っているし(あたるいわく、「ランキングをあげることにキョーミはない」、らしいけど)、たまに枚数の関係で新人賞に応募できない短編小説とかを載せると、閲覧数三千超えはよゆうだし、“フレッシュ!”(という名のただのお気に入り)獲得数は最低でも三十コ、“感想、或いはほしのこえ”(という名のただの感想)も五つはつく。たいていは好意的な評だ。

 おれは、自分が詩を書いていることなんてあたるに一度も言ったことはないけど、ときどき『Plenty of SPACE』に日記とかを投稿して、あたるとは比べ物にならないほどうすーい反響をえていた。だけどあたるは「毅には才能あるよ!」って言う。おれはうそだろ?って言う。

「うそじゃない! オレは文章関係においては、ひたすらにふざけない」

 だから毅には才能ある、と言っていた。いままでそんなのぜんぜん信じてなかったし、ほんとうは劣等感でいっぱいだったけど、だけど『現代詩篇』の選外佳作に選ばれたことで、その黒い気持ちもいくらか薄めることができていた。

 授業をうけていても、うわの空で、窓の外ばかり見てしまう。快晴だ。こんな抜けるような青空、夏だっていうのに、おれたちはなにをやっているのだろう? 勉強するならまだマシだ。海へ行くでもない、部活に燃えるでもない、おれたちの貴重な青春を、現代詩だの小説投稿サイトだの、そんなものに費やしていて、空しくないか? だけど、あの書店で自分の名前を見つけたときの宇宙が、この青空すらを貫いていた。

 うれしい。たんじゅんに。すごくうれしかった。

 おれたちのポエジー?

 そんなの、すっげーバカみたいだけど。

 三時間目が終わると、本を読みながらあたるがおれの席まで来て、「午後になって好調になったら放課後どっかいこうぜ!」と言ってきた。手には『ヴァージニア・ウルフ短篇集』と書かれた本を持っていて、目ではその活字から浮かびあがるイメージを真剣に追っている。

「もうすでにそこそこ好調」

 とおれは応えた。

「よっしゃ」

 とあたる。

「じゃーそれまでにウルフが描く風景の特別さについてプラスペにみじかい文章あげるから、みてくれよな!」

 プラスペとは『Plenty of SPACE』の略称である。本から目も上げずにあたるは言い残して、自分の席へ戻っていった。スマホを取りだし、バチバチとなにかを書きつけながら真剣に本を読んでいる。あたるの好きな、イギリスの古い小説家だ。かれの『Plenty of SPACE』ページのアイコンにも使われているからその顔だちはわかる。白黒の写真で、神経質そうな女性の横顔がうつっている、それがヴァージニア・ウルフ。

 おれはあたるに選外佳作のことを言いたくてソワソワしている。だけど、おれはあたるみたいに本なんて読まない。芥川も太宰も春樹も流行りの作家すらも、教科書以外の文章をほとんど読んだことない。

 そんなおれが、ヴァージニア・ウルフについての批評を書くヤツと、こんなふうにつるんでいていいのだろうか? ときどき例の劣等感にさいなまれる。あたるはこんなおれに「才能がある」って言ってくれたけど、才能ってなんだ? ついでに、詩ってなんだ?

 だけど、ほんとうはわかっている。おれに才能なんてない。おれの詩は、あたるの詩のパクリだし。

 というより、日々いっしょに遊んでいて、坂下あたるの「あえて語らなかった」あるいは「語りこぼした」ことばの集合でできている。あたるのことばの結晶化を逃れたもの、ダイヤモンドの削りかすみたいなのを、おれが拾い集めてできているのが、おれの詩だ。おれの想像力も、創造力も、一%も含まれていない。

 だけど! 詩はそういうおれの「無さ」みたいなのも肯定してくれるのだとしたら。

 名前が載ってどうやってもうれしくて、いつもより好調! 外に飛び出したくてソワソワした。

 昼休み。あたるが怒られている。彼女の浦川さとかに怒られている。ちょうど弁当を食べ終わったあたりだった。

「言ったよね? わたし。おぼえてる?」

「いいました……。おぼえてます……。すいません……」

「わたしの油絵セット持ってこいって。じゃあなんで持ってこなかったの?」

 浦川さとかはカワイイけど、すごく性格がわるい。

「ゴメン、忘れました……」

 あたるは心底ふるえている。泣きそうになりながら謝っている。おれたちのクラスは美術選択ではないから、油絵セットなんて必要ないのに。

「てか、どんだけ無能なんだよ?」

 浦川さとかは性格がわるい。だけど、性格ってなんだ? それもよくわからない。だれかに嫌われることは怖くないのだろうか? むずかしい。おれはボンヤリ眺めている。おれはあたるがさとかちゃんに怒られているシーンがあんがい好きなのだ。それと同時に机に突っ伏して、表面のヒンヤリした場所を探しながら、片手にスマホを弄って、『Plenty of SPACE』の画面を見ていた。

 あたるが先ほど投稿した、『ヴァージニア・ウルフ 風景のゼロ地点』。その紹介文をつらつらと眺める。

…… ウルフの小説で展開されている「風景」。それは現実に我々が見ている風景でも、小説世界のなかだけで起ちあがる風景でもない、関係としての、「認識の擦れ」としての風景。風景の側からも見られているおれたちの「新の風景」とでもいうべき、唯一無二の「風景のゼロ地点」なのだ

 あたるはなにを言ってるんだ? 現実のあたるを見る。

「どうすんだよ? 午後の美術の授業、どうすればいい? わたしなにで絵を描けばいいわけ? なにでキャンバス埋めればいいわけ? お前の血?」

「ゴメンさとかちゃん……。だれかにかりられないかな?」

「『かりられないかな?』じゃねえよ。だれが忘れたんだよ。お前がかりてこいよ」

「え……オレ?」

 あたるはほとんど泣きかけている。おれはあたるが投稿した本文のほうは読む気になれず、ずっとあたるが書いた論考の紹介文を見ているが、何度読んでも意味がわからない。

「いや! この際いわせてもらうけど! さとかちゃんは横暴すぎだよ! もう午後だから、ちょっと血行もよくなってきてるからこんなこともいえるけど、正直どうかとおもうよ! オレがなにをいわれても自分がわるいっておもいこんじゃうエヴァのシンジ君的性格だってこと、しってるくせして!」

 お。言い返した。

「は? 意味わかんないんだけど。ていうか、聞くけど、あたるが持ってきてくれるって言ったんだよ? わたしが頼んだわけじゃないよ? あたるが持ってくるって言わなければ、あたるん家に置きっぱなしにしてないよ? わかってる? 状況。整理する?」

「うぅ……けど!」

「昨日あたるん家に行きました。あたるに誘われて行きました。あたるが言いました。『油絵セット重そうだね。置いてっちゃえば? あしたオレが持っていくよ!』」

「いやそれはそう。それはそうとして」

「整理する? 忘れたのは?」

「ひとはだれしもミスをする生き物で……」

「忘れたのは?」

「……オレ」

「なんとかするのは?」

「……」

 あたるはガタッと立ちあがり、その場を去った。隣のクラスに響きわたる、「だれか、油絵セットをかしていただけませんか!」という声。溜息をついてあたるの席にふんぞり返る浦川さとか。

 あたるの投稿したウルフにまつわる批評は、すでに“三フレッシュ!”を獲得していた。

 放課後。自転車を走らせながらあたるは、「さとかちゃんにきらわれたら人生おわり!」と叫んだ。

 風がとてもつよい。向かい風だ。おれは実際にあたるが言っていることは聞こえないのに、あたるが言っていることがわかった。いつも言ってることだからだ。

 おれがあたるをすごいと思うことのもうひとつは、さとかちゃんへの変わらぬ愛だ。

 性格のわるい孤高の女王。浦川さとかの心をほだす猛者が現れるとしたら誰だと事あるごとに話題になっていた。どんなイケメンも、資産家の御曹司も、運動部のエースも、高給取りのエリートも、メガネをとったら男前の少女マンガ的定番も、だれもかれもが玉砕した。

 あたるは、「オレがいく!」と言って詩を書いた。

 浦川さとかはそれを読んで、泣いて、あたるの告白をうけたという。ラブレターの内容はおれも見せてもらったから知っているけれど、現代詩で書かれていた。

よるのした、

みんなが人間になってしまうのはこわい

少年だったものが、

女のこだったものが、

石ころだったものが、

オリオン座のリゲルとベテルギウスのあいだの距離のなまえだったものが、

十七さい

人間になってしまう

のがこわい

口のなかがぱちぱちして

そんなふうな時間のなかで

オレは〈いま〉あなたをすきな距離だ

 おれは読ませてもらったとき、「わからん。サッパリ」と応えた。だけど、浦川さとかにはつたわったのだろうか? 泣くぐらい、感動するなんて。むしろ、浦川さとかにしかわからない、なんらかの暗号があの詩に秘められていたのだろうか? おれにはわからない。

 あたるは言う。

「メッセージで心を訴えるなんて、いまどきだっせーことだ! 一度はうまくいっても、二度目なんてないんだぜ」

 あたるの言うことはいつも、三割わかって九割わからない。つまりそれって……足すと中身が増えてんじゃん。おれの詩なんて、七割意味深で七割適当なぐらいなのに。

 ことばってこわい。

 あたるのラブレターを読んで涙するピュアを持ちあわせているのに、浦川さとかは性格がわるい。今日もあのあとようやく油絵セットを借りてきたあたるの頭を小突き、「おっせーんだよ!」とキレていた。あたるはへらりと笑い、「へへ、ゴメンね……後輩のクラスまで出張しちゃったよ」と言っていた。

 いまでは周囲のだれもが、浦川さとかとの交際が憧れるべきではない、ひたすら従属を強いられるものだと理解していて、羨ましがる者はない。

 浦川さとかはわけ隔てなく、だれに対しても性格がわるい。権力にもイケメンにも金にも媚びない。褒められてもよろこばないし、怒られてもへこまない。

「さとかちゃんといると癖になるようなスリルと奇妙なあんしん感とがどうじにある」とあたるは言う。

「スリルとあんしんっておなじ精神物質なのかな!」

 と言う。

 たぶん違うとおもうよ……。

 おれとあたるが昔いっしょに通っていた小学校を横切った。門は開放されていて、校庭でたくさんの小学生が遊んでいる。北門から南門へさーっと抜ける。自転車を漕ぐごとに、バスケットゴールで、鉄棒で、サッカーゴールで、ブランコで、シーソーで、野球のバックネットで、子どもたちのそれぞれがそれぞれの仲間と遊んでいるのが見える。

 おれとあたるは、中学ではべつべつだったから、高校で再会した。小学校では大して仲よくなかったのに、高校では急に仲よくなった。

 あたるは立ち漕ぎしながら、「まだおっぱいも触らしてくれない!」と叫んだ。今度はハッキリ聞こえた。

「なにそれ? 最悪じゃん!」

「さいあくだよ!」

 おれは、あたるが口ではそう言いながらも、「でもほんとは、一回おっぱいを触るならずっと手を繫いでくれていたほうがいい」って思っていることがわかっていた。座ったまま、おれはガシガシペダルを回す、ふくらはぎに力を込める。おれだったらぜったいそんなことは思わない。

 いや、わからない。おれには敢えてあたるが言わなかったこと、つまりあたるの「言外」がわかるような気がしていた。そんなのはおれの「想像力」がそう思わせてるだけなのかも? 

 だったら、「あたるの言外」も立派なおれ自身の「想像力」なのかな? 

 おれは浦川さとかの顔が好きで、浦川さとかのおっぱいを触りたいけど、それは正直、わりと誰でもよかった。でも、それは誰でもよくないということと似ていて、ほんとうは誰でもいいわけじゃなくて、でもうまくは言えない。ほんとうにだれかに恋をすることとか、愛するということとか? まだわからない。だからおれは女の子のおっぱいを触る前段階にすら達していないのかも。女の子がおれやあたるとおなじように性欲をもってる存在なんだって、まるで都市伝説みたいにおれにはまだ信じられていない。

 信号待ち、指の汗をシャツで拭いてスマホをひらくと、あたるの書いたウルフについての論考に、“感想、或いはほしのこえ”が一件ついていた。いつもあたるがなんらかの文章をアップするとすぐに“フレッシュ!”も“感想、或いはほしのこえ”もつけてくる、熱烈なファンだ。きっと年齢は、もう三十歳を越えている。だけどおれたち、ただの高校生なんだぜ?

 川に着いた。おれは自転車を止めるなり、「さとかちゃん、孤立することが怖くないのかな?」と言った。

「わかる。体育の準備体操のペアとかめっちゃ気まずいとかおもっちゃうし」

「それに、話し相手がいないとおれ、自分がなにを考えてるのかもわかんなくなるし……」

 あたるは、ちょっとビックリした顔をした。

 毎月詩をつくって、投稿して、半年になる。六コ詩をつくって、それがはじめて読まれてちょっとだけでも認められていることがわかって、おれはおれを見つけたような気持ちになっていた。おれは、「ほんとのおれはなにを考えてるんだろう?」ってよく考えるようになった。いつもあたるの言っていることの反響や残響でしか、なにも考えられていない気がしていたから。

「相手がつまんなかったらどうすんだよ!」

「は?」

「毅の理論だと、はなし相手がつまんなかったらお前までつまらんくなるぞ」

 おれは黙った。そうなのだろうか? じゃあ、おれはずっとあたるといないと、おれひとりになったら、すぐにつまんなくなるのか?

 きゅうに色々なことがおそろしく感じられ、佳作になったおれの詩なんて、あたるに見せられるわけがないとおもった。クラスメイトがたまに自慢している「歌ってみた」、「踊ってみた」、「雑誌に撮られた」、「動画がバズった」、そういうのにも劣っていて、ほんと自分が盗人たけだけしい、小ズルイ盗作ポエム野郎だって、ときどきおもっているし、いまもどんどんそういう気分になってきた。

 どうおもうだろう? おれの詩をみて、あたるはどうおもうだろう? おれが搔き集めて再編集したあたるの言外。あたるの声なき声。あたるの本心の澱。意識の裏側……。

 激怒するかもしれない。取り繕うかもしれない。照れるかもしれない。感心するかもしれない。反応によっては、いまよりおれは、ずっとあたるを舐めるようになるかもしれないし、いままで以上に打ちのめされてしまうのかもしれない。

 なんて勝手で醜い。あたるの才能に嫉妬する、おれの心。あたるはいつのまにか自販機で買っていたサイダーを飲んでいた。

「のむ?」

 と言って寄越してくる缶をうけとる。

 川面は夏のひかりを反射してキラキラしていた。眩しくて直視できない。

 おれはサイダーをジビリとのむ。なんかヘンな味。

「なんだこれ」

「ハハッ! 麦茶。混ぜてみた!」

 あたるは笑っている。

「ざっけんな!」

 おれはサイダーの中身を川に向かってぶちまけた。しゅわしゅわの泡までもがスローモーで、川面にぶつかって弾けるみたいに見えたけど、景色が終わっちゃったあとではオナニーしたあとみたいな無力感が残るばかりだった。空っぽの缶がさむざむしい。

「もったいねー」

 あたるは言った。

「でも、キレーかったなー」

 とつぶやいて、スマホの電源を切った。あたるの目に映ったものを、あたるのことばで移しかえられたら、世界のいちいちがきっと潔くうつくしくなる。おれは敢えてあたるがことばにしなかった零れおちるものを拾って集める。

 草にすわる。さっきからあたるのスマホのむこうでは、『Plenty of SPACE』から届く“フレッシュ!”や“感想、或いはほしのこえ”の通知をしめすバイブが止まらなくって、まるで宇宙からかかってきてる電話みたいに鳴りやまないって、おれは知っていた。あたるは宇宙との通信を切って、「聞いてくれる? さとかちゃんの極悪な所業の数々。お前しかいえる相手いないんだよ」とこぼした。

「ノロケを超えたノロケみたいになっちゃってるからなー」

 おれは応じる。

「わかってくれる? この、フクザツな感情。うれしくないわけじゃないんだ。だけど、油絵セットの件みたいなのって、しんけんにどうしたらいいかわからんし」

 川がどんどん夕ぐれる。あたるは饒舌におれだけにむかって語りつづける。

今日を書きはじめて、今日を書き終える、

その途中を死ぬおれら青春の複数は性欲で片づいてしまうけど

たったひとりを取りだせば、ほんとうには手を繫いでいたかったんだよの

後悔でいっぱい

ヤってるときにヤれないことばかりに、

ときめく快哉!

 シャワーを浴びているときにおもいついた詩の断片をスマホにポチポチ打ち込んだ。

 思いついたとき、思いついたイメージをガチャガチャ組みたてているとき、思いついたことをスマホに書きつけているときは陸つづきにスムースに移行されていて、そのあいだは失神してるみたいに集中している。俗世もなにもない感じになる。

 だけど我にかえって見直すと、出来上がった詩の断片は、あきらかにあたるが今日話していたことのスピンオフみたいになっていて、ガッカリする。

 だけど、厳密にはあたるが喋ったことはひとことも採用していない。こういうことを言いたかったのかな?っておれが勝手に翻訳した内容になっている。

 いまの世のなかでは自由恋愛万歳! みたいな空気をたたえているけれど、その実恋愛をしないひとだって中にはいるのだろう。そんなひとのことを、無視して傷つけるような詩はつくりたくなかった。おれだってその気持ちはよくわかる。おれがいつか彼女をつくっても、この痛いような気持ちはなくさずにいたい。法律で童貞が禁止されて、全人類が童貞じゃなくなっても、この孤独はなくならないんだ!とありえない設定に過剰に感情移入してしまうおれ。それなのに書きつける詩はこんなふうになってしまう。こんな詩じゃとても届かない。

 どこに?

 わからないけど……。でもどこかに届きたい。せっかく書いているのだから。貴重な青春をつかって、書いているのだから。

 玄関のドアが開き、母親が帰ってきた。幼いころに離婚した我が家では、夜が更けて母親が帰ってきてようやく、「おやすみモード」に気持ちがしずまるのは子どものころからだった。リビングでスマホを弄っていて、顔も上げずに気の抜けた「おふぁえりー」というような声をだした。

「はあ! 疲労!」

 母親はおれの「おかえり」より百倍ぐらい明晰な声でそう言った。疲れているようだ。

 おれは牛乳を飲みながら、さらなる詩の試行錯誤をすすめていった。

“今日を書きはじめて、今日を書き終える、”

 の部分が気に入らなかった。もっとモーツァルト的なことを、バシッとことばであらわしたいのだ。モーツァルトは作曲のとき、長大な音楽の全体を一瞬で思いつくのだという。音楽の先生がこないだそう言っていた。そんな伝説を自分の手柄みたいに信じて詩にして語りなおすなんて、ちょっとダサいとも思えてきた。

 すこし修正して、

“今日を始めて、今日を終わりたい忘却を伴って、今日を消える”

 と変えてみた。いまいち嵌らない。却って悪くなった。けっきょく元に戻して、いったん終えた。母親が総菜屋で買ってきたおかずを夕食にしてテレビを見ている。うるさい。宇宙が途切れる。

 詩を書いているおれの意識のなかで、昼間の川原であたるが言っていたせりふがずっと、うるさいぐらいに鳴っていた。

「さとかちゃんとつき合うまではさあ、恋愛小説とかよんで、ウフフとかもおもってたけど、いまはなんか、なんだかなあっておもいはじめた。へんに感情移入しちゃって、安いドラマにすらほだされているのに気づくと、しゃらくせえっておもっちゃう。JPOPにだって感動しちゃう。本をよむってことが、人生経験に左右されちゃうなんて、いままでのオレだったら、『バッカじゃねえの!』っておもうところだったのに。だって、芸術には早熟の天才がつきものだ。ランボオをみろ! 人生経験にあてはめて理解しようとするのは後世の人間のわるい癖だ。でもオレは女になりたいなあ! だって、女になるってめっちゃ難しいことで、『まるで女の人の気持ちがわかってるみたい』にかかれてる小説なんか、ぜんっぜん問題にならないわけ! そんな生やさしいもんじゃない。女をかくってことの、不可能性への官能が足りない!」

 やっぱり、ぜんぜんわからない。だけど、こんなにも意識にこびりついて、ずっとあたまのなかで鳴りやまない。

 おれは詩も小説も映画もマンガもアニメも音楽も絵も、みんなが知っているよりはるか下の数しかしらない。ぜんぜん興味も持てない。他人の詩も、まったく読む気になれない。あたるの詩だけ読んで、あたるの小説だけ批評だけ詩歌だけ読んで、あたるのことばだけ聞いて、自分の詩をつくっている。

 けっきょく詩は風呂をあがって書きつけたままのかたちで保存し、牛乳を飲み干す。

「あんた最近リビングによく居座るけど、なにしてんの? 彼女にメール?」

 と、思春期の息子に対して無神経なことを聞いてくる母。

「いないし。しさく」

「しさく?」

「しさく」

「へーっ。高尚!」

 思索と捉えたか、詩作と捉えたかわからないけど、どちらでも正しい。でも、どちらにせよまったく高尚ではないことはもうわかっていた。芸術なんてぜんぜん高尚じゃない。おれがやっているものが芸術なんだとしたらだけど。

 翌朝起きると十時だった。今日もちゃんと学校に行く時間に起きられなかった。連日の遅刻癖にもかかわらず、朝ごとにきちんと後悔と罪悪感に見舞われることがむしろ新鮮だ。もっとちいさいころは母親に連れられ睡眠外来に行ったりしたが、けっきょく有益な知見をえることはなかった。ただわかったのは、この夜型の体質は矯正できないってこと。まるで依存症みたいに、土日もきっちり八時に起きるならいいけれど、一日でも起きるのが遅れたら、すぐに元通りになる。三度ほど挑戦したけれど、規則正しいはずのその生活中はずっと体調がわるくてダメだった。うっすらと気持ちわるくて、首のあたりがなにかでコーティングされているみたいに、バリバリと重だるいあの感覚。

 太陽が眩しい。窓はあいているのに、微かな風も入ってこず、じりじりと暑かった。こんな熱気じゃ、二度と長袖を着る日なんて来ないんじゃないかとすら思えてくる。

 ボヤボヤとしたあたまでTwitterをひらいた。それと同時に、昨日つくった詩の断片をおもい出した。あれはちょっと、マズかったかも……、と二度目の後悔を味わう。だけどこれも、恒例のこと。あたるも言ってた。詩作とは陶酔から生まれるもんだって。ただしくは、もっと偉い文学者の誰かのことばらしいけど。

 だから、朝がくるごとに詩を消してたら詩なんて永遠にできない。人のポエジーを笑うな。夜のポエジーを卑下すな。佳作とはいえはじめて他人に認められたおれは、それをつよく心で意志してスマホの画面をフリックフリックした。

 文芸関係のリスト、“ことばはごかく”を眺めていると、

…… 若さで血走ったまなこには、中身の空洞が、あたかも血液の結晶で、反射するように、輝いて見えるのだろう。自分にもそういうときが、たしかにあった。今は粛々と書見。

 というつぶやきがあたるの内輪でいくらかリツイートされていた。つぶやき元は詩集を何冊か出版し、在庫を文学フリマとかで売っている詩人のおじさんだ。おれもあたると連れだって行った文学フリマであいさつしたことがある。一時期はあたるの詩を熱心に褒めていたひとだ。

 ぼやかして書かれているけど、どうやらあたるが昨日アップしたウルフの批評へのエアリプっぽい。最近こんなのばっか! 朝からウンザリすることばかり。

 あたるはこういうことで、いちいち傷ついてたらきりないしって、気にしてないぜ!っていう雰囲気を出すけれど、そのじつ気にしているのだろうことを、直接には言われないけどわかるときがある。それこそことばの裏がわだ。あたるが言わなかったことを繫げていくと、あたるがほんとうには言いたかった、「あえて言わなかった」ことに気がつくことがある。

 だけど、それをあたるの「本心」だなんて言うと、おれはそれを裏切りだとおもう。なにに対して? 卑しい。おれも卑しいなら、あたるだって卑しいし、この詩人おじさんだって卑しい。粛々と書見してつぶやかないでほしい。みんな違ってみんな卑しい。

 あたるはTwitterのリスト“ことばはごかく”のなかでもちょっとした有名人だけど、それで一円すら稼いでいるわけでもなければ、だれか著名なひとに評価されているわけでもない。それなのに、すごく嫉妬されている。それと同時に崇拝もされている。なんだかここのところ息ぐるしい。あたるもあまりつぶやかない。才能ってなんだろう? 才能があたる自身をまだしあわせにしていないのに、めんどくさいことばかり起きる気がする。あたるの書いたもので、ほんとに救われてうれしいってひとだって、何人もいるのだ。おなじように、傷ついて苦しいってひともいる。才能があるひとはどういうふるまいをすればいいのか、正解を誰かしめしてほしい。

…… おきた

 というLINEをあたるにおくった。

…… おせー笑

 ともどってきた。

 返事を返さないうちに、『Plenty of SPACE』をひらいた。あたるのウルフにかんする論考は、当初サイトが弾きだした獲得反応予想、“民からの観測地点”の予想をおおきく下回り、“十三フレッシュ!、二感想、或いはほしのこえ”にとどまっていた。

おれの嫉妬がささやかに舞いあがり

吐けば醜い

そらが冷たければ、しろく凍るはずのもの

胸のうちでこもって肺がかたまっていた

 と、気がついたら詩の断片をメモっていた。

 あたるの文章が評価されなかったことで気持ちが遂げられて、創作意欲がわいていた。おれの詩はきたない。だけど必死になってスマホの画面にうつったキーボードを弾いている。

 するとあたるから、

…… はよがっここいや

 っておっかけのLINEが来ていた。

…… 浦川さとかのご機嫌は?

 と返すと、

…… さいあく!

 おれはハハッとかわいた笑いをもらした。

 学校に着いたらもう昼になっていた。あたるはおれを見つけると「おせー」の口をした。あたるの机に合流すると同時に、浦川さとかが「嫌がらせかよ」とあたるに吐き捨てていた。

 またケンカか?

 おれはいやなタイミングで合流してしまったと自分の時間感覚を呪いはじめていた。あたるがさとかちゃんに責められている場面は遠くで眺めているから乙なもので、自分が登場人物になってしまうと生々しすぎて楽しめない。

「ゴメンさとかちゃん、でもしらなかったんだよ……」

「は? あたし絶対言ったし」

「もう忘れないから、さとかちゃんがそんなにレンコンを憎んでいるだなんて……」

 あたるは料理が趣味なので、毎朝浦川さとかに弁当をつくってやっている。あたるいわく、「好きな女の子の栄養になるものを創作するなんて、芸術にも勝るよろこび」なのだという。毎朝早起きしてせっせっせっと弁当をつめており、浦川さとかの母親からはLINEを通じて月七千円の送金がされているという。以前、「お前のもついでにつめてやろうか?」と聞かれたことがあるが、「おれはパン派だから……」と言って断った。だって三人でおなじ弁当をつつくなんて、なんか気持ちわるいから……。

 あたるは毎日四時間しか寝ない。それも一日二回にわけて、二時間ずつ眠っている。夜十時に眠って日付が変わるころに起きる。そこから風呂に入り、朝五時になるまで集中して本を読んだり、小説や批評を書いたり、街を散歩したりしている。

 だから、あたるにLINEを送れば、どんな時間でもかならず二時間以内には返ってくる。たまにおれも眠れないときに深夜の散歩につき合ったりしている。真夜なかでも早朝でも、本を読みながらでも文章を書きながらでも、あたるはLINEの返信をすることができる。

 あたるは泣き笑いしながら謝りつづけている。浦川さとかは弁当をあたるに投げつけた。

 嫌いなレンコンが弁当に入っているというだけで、ここまで激怒するなんて……。

 顔がべちゃべちゃに汚れた親友を見て、おれが完全に引いていると、浦川さとかは、「あーあ! あたるがそんなんだったら、あたし毅くんとつき合っちゃおうっかなあ。あたるもうぜんぜん、キラキラしてないし。厭きちゃったかも」と言って、胸をつよくおれの腕におしつけ、絡みついてきた。そうしておれの耳のしたのあたりをこねこねしたあと、口づけして去っていった。浦川さとかの茶髪ごしにあたるのかなしげな表情をみる。

 浦川さとかが去ったあと、あたるは顔面にたくさんのおかずをつけたまま、しばし呆然としていた。しばらくは米粒をよけようともしない。

 おれは、「ちょっと勃った」と正直に報告した。

 あたるは、「いいなあ」と言った。

「はあ、酷い目にあった。辛子レンコン、力作だったのにな……」

 ようやく米粒を取り払い、卵の破片やレンコンが学生服についているのをゴミ箱に行って払った。おれも同行し払ってやったが、弁当の残骸はあらかたゴミ箱の周辺にこぼれてしまった。

「ありがと。顔あらってくるわ。たしかにオレ、もうキラキラなんかしてないかもしれないしな」

 そんなこと言わないでくれ、という感情と、もっとおれの前で傷ついてみせてくれという感情が、同時に起こった気がした。今日も青春が快晴。

 放課後にあたるは、「なんかくさくさするなぁ。キャッチボールでもしない?」と言いながらやってきた。

「するかー」

 おれは午後の授業で凝り固まったからだを解きほぐさんと、伸びをする。ぐいーっと背中を反ると、天井がみえた。ボツボツと無数の空気孔の開いた、見慣れた天井だ。

「お前背中やらけーな」

 あたるは感心した。

 職員室で鍵を借り、部室棟まで歩く。プレハブでできている建物の二階に我々の部活、漫画研究部の部室はある。といっても、実質的な活動はほとんどなされていない。文化祭の時に部内の漫画をどこか教室に移動して、お茶もださない漫画喫茶をやっているだけ。それでも、文化祭なんて夕方には暇になっちゃうから、しずかに漫画を読む生徒で意外に盛況だったりする。

 連絡掲示板の漫画研究部の欄に、「グローブかりてまーす」とあたるがチョークで書いた。他の部活掲示板にはときどき、「筋トレ」とか「視聴覚室」とか「土昼オフ」とか、連絡事項が書いてある。鉄の階段をカンカンカンと登り奥から二番目の部室の鍵をあけると、埃くさい空気がむわっと舞いあがった。

 風が一気に吹き込んだ。無造作に積んである漫画のページがばささっと舞いあがった。あたるはしばらく周辺を探し、「あれー、あの漫画、だれか持ってったまま返してないんかなぁ」と言っている。

「おれら前回、球といっしょに返したよな」

「おう返した。オレがな」

 しばらく物色しているうちに、漫画棚のしたのほうにグローブがふたつ、挟まっていた。片方は白球を摑んでいる。

「よっしゃ!」

 ということでおれらは自転車を走らせて、川原の公園にむかった。

 もう完全に暑い。飛ばさなくても汗が勝手に噴きでてくる。シャツが湿って透明になった。あたるもだらだら漕いでいる。

「あちー」

「あっちー」

 と無為にくり返して。

 川についた。やっぱりおれらはなんだかムカムカしていた。怒りっていうのとは違う。発散できないエネルギーが身体に燻ってるみたいだった。あたるも浦川さとかからの仕打ち(弁当投げつけの件)とか、Twitterでのエアリプ(らしきもの)のせいか、いつもより元気がないように見える。

 あたるもおれも運動は得意でない。野球なんて体育でもいい思い出なんてひとつもないのに、定期的にキャッチだけはやっているからそこそこできる。バットにボールを当てるようなすぐれた運動神経、動体視力はないから、クラスで打順を組んだらいつも下位。ピッチャーにふざけた山なりボールを投げつけられる。それでも打てない。球技はからきしだめだった。バスケもバレーもサッカーも、球技大会ではぜんぶ足手まといだった。

 けど、スポーツの楽しさはわかる。キャッチボールをしているときの、足を踏み込んだときの土の感触とか、ボールが風を運んできた重さとか、白球を収めたグローブのなかで弾ける空気のにおいとか、そういうのは好きだ。スポーツっていうのは自然とたわむれる面白さがある。もしおれがバットにボールをうまく当てられたら、大空を切るしろい放物線をみて感動するんだろうけれど、しあわせにも分相応ってのがあるんだろうな。おれたちにはスポーツスターのよろこびはむり。一生むり。おれはあたるとボールを交換しながら、「お、いい球」とか言いながら、徐々にあとずさって距離をとっていった。すこしずつ肩が慣れて、長いボールも投げられる。

 すでに汗みどろだった。青空のした、半そでの白シャツを湿らせながらひたすらボールをやり取りしている。学校指定のズボンに纏わりつく汗が気持ちわるい。すこしずつ意識がボーっとしてくる。無心というわけじゃないけど、なにも思い煩うことなくひたすらからだを動かしている状況に気持ちが心地よくしびれていた。

 おれには、あまりにも人生は長すぎる気がしていた。考えるべきことがたくさんあって、でも考え抜くことがしあわせとはどうしても思えなくて、十六歳なのに疲れている。あたるはエネルギッシュだ。書物にどこまでも情熱を傾けられる。おれにはそれが不思議だった。

「浦川さとか、ひでえよな」

 おれはとくに考えなく言った。

「ひでえよお。食べものを粗末にするなんてダメだよ。いえないけどさ」

「でもかわいい。弁当を投げつけて仁王立ちしているときなんて、道徳を超えたかわいさがあったよ。瞳がキラキラしてさ」

「わかる」

 あたるは笑った。

 人生で追いかけるべきものがあるあたるに嫉妬していた。だけど、その嫉妬はときどきおれを苦しめるけれど、あたるにもしほんとうに才能があるのなら、降伏してもいいという諦念もあった。「ほんとうの才能」を見てみたかった。だからあたるに気後れしているという意識はないし、聞きにくいことも言いにくいこともそんなにはない。

「なあ、いまさらだけどさ、なんであたるは文学をやってるの? 空しくない? いまどき。だれも現代小説なんて読んでないじゃん」

 いわんや、現代詩をや。

 もうすでに三十メートルは離れていたので、随分大声になった。だけど喉がよくひらいていて、声がスッと通って気持ちよかった。

「え! うーん……」

 あたるは引きつづきボールをとっては投げ返しながら、なにも言わず長考した。

 おれも、とくになにも付け加えず待つ。そうして七八回くらいボールをやり取りしていると、とつぜん、「なあ、オレいまから長台詞かますけど、最後まで聞いてくれよな!」と言って、フライを上げてきた。

「おー」

 と返し、数歩前進して額の前でフライをキャッチ。

「オレがオレじゃなくすためだ! なあ、人生ってなんだろう? 人生は辛い。人生はたのしい。人生は短い。人生は空しい。オレはぜんぶそのとおりだとおもうよ。人生は不条理だ。だけど厄介なのは、人生は辛いと同時にたのしかったりするし、たのしいと同時にどこか空しい、かなしいと同時にどこか充足している。そんなとこにあるとおもう。人生はパラレルに重複している! たのしいと同時に辛い。かなしいと同時にフレッシュ! そんなときもある。悪夢をみたときとかさ、オレはすごく人生が充実しているみたいな満足感をえることがあるんだ。夢のなかでは辛くてくるしくこわかったけど、そういう濃密な夢って、作家が夢日記なんてかいちゃうみたいに、魅力的なフィクションで、でも同時にあるべき現実でもあるんだっておもうよ。だって感情とか、感覚とか、つよいきもち。たとえば夢のなかでさとかちゃんを失ってすごくすごく辛いきもちとかは、現実の何倍にもなるようなきがしちゃう。現実ではあんがい、さめてる。なにか出来事が起きたときに、ゼロ時間で巨大な感情にみまわれることなんて、ほんとはあんまない。そういう意味で夢はすごい。夢のはなしは関係なかったかな……。話が逸れたかも。ようするに、『オレ』は複数の『オレ』を生きてる。無意識にも哲学してる。よく人生でなにかを成功させたひととか、結婚して子どもも巣だって穏やかな老後、みたいなときとか、『辛いときもあったけど、生きててよかった。いまがいちばんしあわせ』っていうじゃん? わかる。それはそうだ。それはいい。だけど、いまのオレらにはぜんぜん真実味がない。『オレらのいま』を生きることがふあんなんだって! 過去は大体そうだ。昔のことばかりキラキラしているようにおもえるのはなぜだろう? 『しあわせなときもあったけど、いまはとても辛い。死にたい』ってときはどうすればいい? 苦労を乗り越えた物語ばっかりをよくきいて、体よく消費されちまう。辛いときの物語だって、オレはだいじじゃないかなっておもう。つまり、ええっと……。また話逸れてる? まあいい! もういいわ。ようするに、究極的にはオレはオレをやめたい。愛ってなに?ってよくいわれるけど、『ほんとうの愛』とはなにか? みたいな。オレには持論がある。オレは日本語の『愛』っていうことばは、西洋でいうところの『LOVE』というものとはちょっと違ったもんだと思う。『LOVE』っていうのは三角形のこと。西洋では、神様がその頂点。で、その底辺を結ぶふたつの点として自分と、愛する相手がいる。自分と愛するひとは、信頼で結びついている。でもお互いをみているわけじゃなくて、頂点にいる神様をみている。お互いがお互いをみてるんじゃない。信頼しあうふたりはお互いにむき合うんじゃなくて、おなじ神様の方向を一心にみることで、神様から反射してくるものをもらっている。神様からリフレクトされる感じで愛がある。なんか神様とかいうと胡散臭いかもだけど、ようするに愛は三角形で、お互いにひたすらむきあうのではなく、頂点にいるものをふたりでみて、反射するものを慈しむことが愛だ! お互いだけをひたすらにみて、感情をぶっつけあっていると、どうしてもどこかで辛くなっちゃう。愛に大きさはない筈なのに、どこか比較しちゃう。そういうのは防ぎたい。日本ではそういう概念に疎いから、ついお互いをみすぎてしまう。宗教を嚙ませないと、「愛」の理解は歪んじゃう。そういう西洋だって、とてもうまくいってるとは、いえないかもしんないけどさ。子どもとかペットとかは愛になりえるかもしれない。ことばが通じないものは頂点になってくれるからね。あたらしくむき合うべき方向が生まれる。三角形の頂点が生まれることそのものが、愛ってことなんじゃないかなっておもう。だから愛っていうのはどちらかというと、お互いがお互いとむき合わないってことなんじゃないかってオレはおもってる。『愛してる』ってことばも、『愛』っていうことばも、生活レベルでこんなふうに消費されるのはおかしい。ことばの世界の問題にすぎないじゃないかとおもう。完全に話逸れてる! 愛について語ってるよな今オレ。でも、そんなに脱線してないぞ。つまりオレにとっての文学は、愛の三角形の頂点になる。文学と結ばれる点の向こう側は読者になる。文学を頂点とする三角形の、底辺を結ぶふたつの点が自分、つまり著者と読者になる。そんな三角形にオレは生きたい。そのとき、著者と読者は『文学』から反射されるものをうけ取って文学を愛することができる。著者が読者のためだけに、読者が著者のためだけに存在している状態は、回避される。読者のためだけにかかなくてもいい! 文学のためにかけば、それが反射して読者をしあわせにする。読者がよんでくれるだけで、文学から反射されるもので著者もしあわせになれる。それが愛の構造。気に入らない物語を貶める必要もない。そんな意欲も湧かない。重要なのは、そのときオレは『オレ』じゃない、『著者』になれる。三角形の頂点を経由しているからこそ、オレは文学の機能のなかでオレをやめて『著者』になれる。そうすれば、オレはオレのからだの限界を飛び越えて、想像力だけの存在になって『オレ』自身を俯瞰してみることができる気がするんだ! これは読者だってそうだ。文学を媒介にすれば、一瞬自分の現実から空に飛べる! 浮かびあがって、べつの世界にいけるのは、じつは三角形の頂点に文学があるからなんだ。歴史っていい換えてもいい。たくさんの本があるから、そういう文化になっているから、読者は一冊の本で自分の人生を束の間逃れて、戻ってきたときあるべき世界のうつくしさ、人生のうつくしさをとり戻せる気がしてる。けっきょく、なにが辛いかって自分は自分をやめられないってことが辛い。なにかに依存したり執着してしまったときに、自分を自分でコントロールできないってことが辛い。だから、宗教にしても結婚にしても恋にしても学問にしても芸術にしても、それぞれを頂点に三角形の人生を生きることで、その依存や執着、黒い気持ちを束の間逃すことができるって、信じてるんだ。なにかが反射されてくるまでの一瞬は、オレがオレじゃない、ただの文学を愛するものになれる。それがめっちゃきもちいい。信じるものから跳ね返ってくるものを待っている、ほんの一瞬のひかりだよ。すごいかっこよすぎることをいうようだけど、オレはオレを捨てて文学のために生きたいし、そのほうが気が楽だ。そのためなら、できるだけ現世的な幸福は放棄してもいい。モテなくてもいい。貧乏でもいい。辛くてもいい。でも、そんなふうにクールに宣言したって、オレが自分に酔ってるだけで、ほんとうはそこまでの覚悟はまだない。さとかちゃんのことはすきだし、うまいもん食いたい。だから、あくまでも理想だけどさ……。まあ、オレの覚悟はまだまだ弱いから、自分の好きなように、さとかちゃんへの煩悩を持て余したり、こうやってお前に甘えて自分語りして自己顕示欲を満たして、こんなありえねー長台詞をキメたりしているわけだよ! な、ずっと仲よくして、オレが文学になっても、オレのこと嫌いにならないでくれよな!」

 奇妙な事件が起きたのはその夜のことだった。

<続きは本編でお楽しみください>

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