RENZABURO

試し読み

由依

 由依さん。穏やかな声で呼びかけられて、振り返る。ごめんね、待った? という彼にううんと首を振り、差し出された左手を取る。演技のように感じられるほど自然な彼の態度に少し複雑な思いを抱きつつ、「やっぱりこっち」と言いながら手をほどき彼の腕に絡める。赤信号に立ち止まると、彼は少しだけ体をこちらに向け、掴まれている腕とは反対の手で私のおでこにかかった僅かな髪の毛をよけるように撫でた。その瞬間、満タンのインク瓶に万年筆のペン先を浸す時のような緊張が背中に一直線に走る。溢れそうなインクは表面張力でぎりぎり瓶の中に留まり、くるくると回る尻軸によってペンの中に吸い込まれその水位を僅かずつ下げていく。

「食べたいものはありますか?」

 見上げて聞くと、実は鴨持ってきたんだ、と彼は肩にかけた鞄を指差した。

「ほんとに? マグレ?」

「うん。由依さん好きでしょ」

 やったと声をあげてじゃあ付け合わせは何にする? と聞くと、グリルした季節の野菜添えはどう? と彼は言う。

「いいね。ソースはバルサミコ?」

 もちろん、と微笑む彼に、嬉しいなと呟いて寄りかかる。いつも彼と会うその瞬間に走る緊張は、もうそんなものがどうしてあったのか分からないくらい綺麗に消えていた。駅前のスーパーに入ると、カゴをカートに載せ青果コーナーを見て回る。アスパラとスナップエンドウどっちにしようか? あっカブは絶対入れたいな、と言い合いながら野菜をカゴに入れていく。人参の前で彼は立ち止まり、いつもはオーガニックの人参あるのになと残念そうに言った。

「別に良くない? 普通ので」

「ここのオーガニック人参甘くて好きなんだけどな。ないなら店から持って来ればよかった」

「藤岡さんに怒られちゃうよ。あの人ケチなんでしょ?」

「倹約家って言ってあげようよ」

 夜食用にイカの塩辛買っておこう、あ、サラミもいいな、とつまみに手を伸ばしている間、彼は真剣に日本酒の棚を見ていた。ねえ由依さん来て、と手招きをされて行くと彼が嬉しそうに箱入りの雨後の月を指差した。純米吟醸で良くない? と私は隣の雨後の月を指差す。でもこれ結構希少なんだよ、金賞受賞だしと彼は食い下がり、しばらく棚の前で他の日本酒と悩んだ挙句、結局大吟醸の箱をカゴに入れた。

「由依さんは美味しいものだけで出来上がってほしいからね」

「私今添加物まみれのつまみ入れてきたよ」

 またこんなもの、と彼は塩辛とサラミを見比べ、塩辛はもうちょっといいやつがあったはずだよと瓶を片手に海鮮コーナーに戻っていった。

 由依さんと食べ物の話をするのが好きだよ。買い物袋を右手に提げて私と手を繋ぎながら、彼は言った。私も、こんな風に好きな人とご飯の相談したり、一緒に買い物したりするのが夢だったと呟く。

「他にはどんな夢がある?」

「二人で鎌倉に行きたいな」

「そんなのすぐに叶っちゃうよ」

「鎌倉の次は京都」

「その次は?」

「バリのウブド」

 マウイ島、バスク、イスタンブール、レユニオン島、と思いつくままに地名を挙げていくと彼は笑って、レユニオン行ったことあるよと言った。

「ほんとに? すごい自然が豊かなんでしょ?」

「昔働いてた店で、社長が従業員何人かヴァカンスに連れてってくれたんだ。確かに自然は圧巻だけど、一週間も居たら飽きるよ。あ、でもサンポールっていう街に大きなマルシェがあって、見慣れない果物とか調味料がたくさんあって興奮したな」

「そういえば、パリにサンポールって駅あったよね? バスチーユの近く。あの辺にすごく美味しい四川料理屋があって」

「あ、知ってる。狭い路地の、すごく小さいところだよね? そっか、由依さんもあそこ行ったことあるんだ。まだあるかな? あの頃パリに四川料理ってあんまりなかったじゃん? 初めて食べた時、久々のアジアの辛さに感動したんだよなあ」

「うんうん。辛さが確か、五段階だっけ? で選べて、私はいつも四にしてた」

「俺は三だったかなあ。ていうかさ、今改めて思ったんだけど、サンポールって、聖ポールのことだよね?」

「そうだね」

「トイレのサンポールってそこからきてるのかな?」

「あれは一応酸性のサンなんじゃない?」

「でもきっと聖ポールにかけてるわけでしょ? そんなのひどくない?」

 ひどいひどい、と思わず彼の肩に寄りかかって笑いを噛み殺す。日本の商品名ってたまに無邪気に非人道的だよね、彼の言葉に笑って頷きながら赤信号に足を止める。

“Notre plat du jour est Magret de canard au miel d’acacia et vinaigre balsamique.(今日のメニューはマグレ・ド・カナール、アカシア蜂蜜とバルサミコソース添え)”

 彼が突然フランス語で言うので、“Accompagne de legumes de saison grilles.(季節の野菜グリルと共に)” と付け加えた。仕事をする上で必要な語学力を身につけたところでぴったり伸び止まった私のフランス語は、それ以降全く進化しないまま、帰国を境に始まった緩やかな退化の一途をたどり今に至っている。知り合った頃、私たちがこうして手を繋ぎメニューを言い合うなどと、どちらも想像もしなかったはずだ。私たちは遠い世界にいて、ずっと互いに高い壁を感じていた。動物園で言えば、爬虫類館にいるカメレオンと大型哺乳類コーナーの隅にいるバクくらいに、互いの生態に想像も及ばないほど遠いところに存在していた。

「やっぱり由依さんは発音がいいな」

「語彙は少ないけど、話せます風な態度で乗り切ってきたからね」

「俺は逆だな。語学学校と仕事で叩き込んだ語彙は多いのに、発音が悪いからいつまで経っても観光客と間違えられてさ」

「三島由紀夫のフランス語って聞いたことある? 前にユーチューブでフランス語でインタビュー答えてるの見たんだけど、知り合った頃の瑛人さんのフランス語に似てて、なんか笑っちゃった」

「それってなに、下手くそってこと?」

「発音悪いのにがんばって喋るとこが似てた」

「嫌な言い方するなあ」

「でも、フランス語喋れる人はたくさんいても、瑛人さんみたいな料理が作れる人は日本に何人もいないよ」

「まあ、それはそうだろうね」

 言葉の割に自信のなさそうな声のギャップに嬉しくなって、手に力をこめた。彼のごつごつした手が、さっきまで野菜を刻んだり家畜の肉を捌いたり魚の鱗や内臓を取ったりフライパンを揺すったりしていたなんて嘘のように感じられた。彼の手は今、ただ私の手を握るためだけにあるかのように振る舞っている。

 マンションに帰ると、五百mlのビールを分けて二人で乾杯した。彼が鴨の皮目に切れ込みを入れ下味をつけている間、私は人参の皮を剥き、スナップエンドウの筋を取る。筋が途中で切れちゃうと文句を言うと、残った筋は俺が後でナイフで取るよと彼はソースパンにバルサミコを入れながら言った。新鮮じゃないのかなと責任転嫁をしながら、やはり途中で先細ってぷつりと切れてしまう筋を流しに放る。ちょっと舐めてみる? 聞かれて振り返ると、ソースに蜂蜜を投入した彼が茶色くぬらめくスプーンを持ち上げる。うん、と微笑むと、私は彼の差し出したスプーンの下の部分を舌先で舐めた。すごい濃厚、と言うと、満足そうな表情で彼はスプーンを口に入れた。うん、濃いいね、と言うついでのように彼は私にキスをして、嬉しくなって彼の背中に手を回す。甘い味が混じり合い、混じり合うほど甘みが薄れていく。あ、やばい。彼は唇を離すとそう言ってざわざわと音を立て始めたソースパンを火から離した。私とソースどっちが大事なのと腰に抱きついて言うと、由依さんに美味しい鴨を食べてもらうためだよと彼は背を向けたまま私の手を取って甲にキスをした。

 二枚の大きな丸いお皿に盛られた鴨と焼き色のついた野菜にとろみのついたバルサミコソースが掛けられ、薄切りのバゲットの載ったラタンバスケットと共に、小さな丸テーブルに出された。

 じっとりと肉汁で湿ったその断面にバルサミコソースをたっぷり擦り付け、口の中に入れるとフォアグラの香りと血の味、バルサミコの酸味が口中に広がる。すごい美味しい。声をあげた瞬間には次の一切れにナイフを入れていた。良かった、と嬉しそうに言って彼も鴨を口に入れる。あ、このカブ甘くて美味しい。この人参も全然美味しいじゃん。散々美味しいと言い合って、私たちは肉の塊を切り取っては一口ずつ咀嚼し、数口ごとにグラスを手に取る。鴨の血の味と相まって、赤ワインは本当に誰かの血のようだった。

「フランスにいた頃私いつもお金なくて、たまにちょっとお金が入るとマグレ・ド・カナール買ってグリルして食べるのが精一杯の贅沢だったんだ。フォアグラとかエスカルゴも好きだったんだけど、体積小さくてコスパ悪いから、マグレが折り合いのつくぎりぎりのところで」

「本当に? あの頃言ってくれてれば横流ししたのに」

「あの頃、瑛人さんは雲の上の人だったから」

 不思議だよね。ふと思い出したようにそう呟いた彼は、ナイフとフォークをどこに向けようか迷っているように見えた。

「俺にとっても由依さんは雲の上の人で、例えばあの頃働いてた店にカール・ラガーフェルドとかジョニー・デップとか来たことあったんだけど、そういう人たちと同じくらい雲の上にいる人で、初めて紹介された時も緊張して何も話せなかったんだよ」

 一つ一つ、手に取るイチゴ全体にきちんと赤味が広がっているかどうか確かめてからハサミを入れるイチゴ農家のように丁寧に言葉を選び、親指ほどのスナップエンドウを音も立てず綺麗に四つに切り分けながら彼は言った。お互い雲の上にいたのだとしたら、私たちはどうして今こうしているのだろう。雲の上に、先に手を伸ばしたのはどっちだったのだろう。いつがその時だったのか、彼との記憶は全て鮮明なのにこれと断定できる瞬間が思い浮かばない。

 明日、中休み帰ってくる? 二人で洗い物をしながら聞くと、うん帰るよと彼は嬉しそうに言う。どっか行こうよ、どこがいい? 公園でピクニックとか、本屋さんに行くとか、あ、そうだこの間割っちゃったお茶碗の代わりを買いに行くのもいいね。すでにどこかに出かけているように楽しげに言う彼に、じゃあこの間言ってた公園でピクニックにしようよ私サンドイッチ作る、と答える。いいね決まり。じゃあ俺は何か飲み物持ってくよ。私たちの間には何の諍いも利害も邪推もない。ただ好きという気持ちだけで私たちは繋がっている。その関係は信じられないほど単純で幸せで、皮膚から内臓まで気持ちがいい。彼と二人でいる間私は何も思い悩まない。彼のことと私のこと、二人のこと、今はそれだけが考えるに値するものであるという事実に眩暈がしそうだった。

「ずっとこうしてたい。二人で美味しいもの食べて、美味しいお酒を飲んで、毎日一緒に寝るの」

「ずっとこうしてればいい。俺は毎晩由依さんのために美味しいものを、全部由依さん好みの味に作ってあげる」

 美味しい料理、心が躍る明日の予定、ねえと話しかけるとなに? と嬉しそうに答えてくれる彼。ファンタジーの世界のようだ。意地悪なおばあさんや理不尽な裁判官も襲いかかってくるドラゴンやオグルもいない、モデルルームや広告のように誰かに物を売りつけるために作られたような、暴力的なまでに美しく完成された現実離れした世界。私はここにいる間延々、彼とただ幸福なだけの毎日を送り続ける。何か一つでも欠ければこの世界は完成しなかっただろう。美味しいお酒、彼の料理、中休みに過ごす二人の僅かな時間、彼の店とこの家の中間地点での待ち合わせ、並んで歩く時の目線の高さの違い、丁寧にやすりをかけられた彼の爪の先、何か一つでも欠けていれば、この世界は完成しなかったどころか、ガラスのないスノードームのようにラメも水もこぼれ落ち形にすらならなかっただろう。

 メイクを落とし、二人で並んで歯磨きをして、切子のおちょこに注いだ雨後の月を持ってベッドに座ったまま、今日お店に来ていた風変わりなお客さんの話や、見習いシェフの柳原くんの悟り世代エピソードを聞きながら彼の右側にぴったりとくっつく。柳原くんがミルクレープを知らなかったということにセカンドシェフの本田さんと二人で驚愕したという話にくすくす笑っていると、「え、由依さん知ってるよね?」と彼が心配そうに聞いて、知ってるよと笑う。

「ねえ」

「うん?」

「まだ不思議なんだよ。由依さんがここにいるの」

「私は、なんかずっとここにいた気がする」

「うん。言われてみればそういう気もするな」

 彼はそう言って私に馬乗りになった。ワンピースとブラジャー、ソングを脱がされ裸になると、彼は自分のワイシャツのボタンを上から外し、私は下から外していく。首から肩を撫でるようにシャツを脱がせると、彼はベルトを外した。全ての調和がとれていた。今日も最初から最後まで、何もかもが完璧だった。こんな完璧な空間がこの世に存在するのだと、こうして一日の終わりに必ず驚きを持て余す。全ての歯車が一ミリの誤差もなく噛み合っていて、そのあまりの精密さに総毛立つ。

 裸のまま眠ってしまった彼の横で、うつ伏せに寝そべったままベッドに肘をつき、切子グラスを片手にスマホのロックを解除した。天気予報を見ると明日は一日晴天と出ている。彼は九時には家を出るだろう。私は寝ぼけたままいってらっしゃいと彼を見送り、ベッドに戻って二度寝をして、のんびり化粧をした後ゆで卵を作る。固ゆでにした卵を半分に切って黄身を取り出し、形が残らないほどマヨネーズとしっかり混ぜ合わせる。白身は細かくみじん切りにしたあと黄身マヨネーズに混ぜ込む。ふわっとさせるためにスプーン一杯の水を加え、塩胡椒で味付けをする。それから冷蔵庫に残っている鶏ハムを薄くスライスして、きゅうりは斜めに薄切りにしてキッチンペーパーでしっかり水分をとる。室温で柔らかくしたバターを食パンにたっぷり塗り、鶏ハムときゅうりを重ねマスタードとマヨネーズを塗って挟む。卵サンドには、冷蔵庫に残っているアンチョビをほんの少し隠し味に入れるのもいいかもしれない。私たちは明日、三角に切り分けられた卵サンドとハムサンドを持って公園にピクニックに行く。木陰のベンチに座りビールで乾杯する。美味しいねと言い合いながら私たちはサンドイッチを食べ、手を繋いで公園を散歩する。この幸福な想像は明日間違いなく現実となる。その確実性こそがこの幸福の価値であったりもする。私は彼が好きで、彼も私が好きで、明日私たちは私たちのためだけに、今日と同じくらい幸福な一日を過ごす。

 由依さん? 薄く目を開けた彼は私を抱き寄せ髪を撫でた。起こしちゃった? と聞くと、ううん、まだ八割方寝てると彼は笑った。目を閉じて、彼の腕の中で、明日のピクニックを想像しながら眠りにつく。それは今思いつく中で最も幸せな瞬間だった。

英美

 悪いな本田、明日のディナーの仕込みは俺がやるから。ランチが佳境に差し掛かった頃、蓜島はそう言って本田の肩を叩いた。別にいいよ俺もよく任せてるしと本田が素っ気なく言う。どこか芝居めいたわざとらしさを感じ、気にするそぶりを見せたら何か負けのような気がして黙ったままヘラを動かす。もったりとまとまったパリブレストのバタークリームにラップをかけ、冷蔵庫に入れがてら蓜島の背中に「デートですか?」と聞くと蓜島はうんと嬉しそうに答えた。へえ、と呟いて冷蔵庫のドアを閉める。それは良かったですね、楽しんできてください、どこに行くんですか? 何か一言声をかけようとするものの、そのどれも絶対に言いたくなくて、苛立ちに任せて口を開く。

「あの子も蓜島さんもどうかしてますよ」

 え? 蓜島がぽかんとした顔でこちらを見つめる。本当に何を言われたのかさっぱり分からないような表情だ。つい数日前、私が「昨日一緒にいるところ見ましたよ」と言った時もそうだった。何か思案するような表情の後に、ああ由依さんのことね、とあっさり認めたのだ。

「自分たちのこと、何か特別だと思ってるんでしょ」

「え?」

「そういう奴らの恋愛ってほんと腹立つ」

 まるで動物園でライオンの交尾を見ている子供のように、畏怖と戸惑いと疑問を投げかけるような目をする蓜島に、独り言です気にしないでください、と言うと、今度は絶望的に絡まった凧糸をもう切っていいと言われた子供のように「そっか」と解放感に満ちた声を出した。この男は三十も半ばを過ぎているはずなのに、何故こんなに不必要に子供っぽいのだろう。小学校高学年の頃、同級生の男の子たちに対して抱いていたのに似た、自分が既に喪失した、というよりも本質的に持ち合わせていなかったのだろうと自覚し始めた少年性のようなものへの羨みと嫌悪が入り混じった不快感が蘇った。

「そっかって……」

 吐き捨てるように言うと蓜島の視線を断ち切って持ち場に戻り、さっき注文の入ったタルト・オ・シトロンの仕上げにかかった。蓜島と本田、そして見習いの柳原。背後にいる彼ら三人が考えていることが手に取るように分かる。「女だから」だ。生理前なのかも、旦那と喧嘩したのかも、生理中なのかも、ヒステリーだな、具体的にはそういうことを考えてるのかもしれないが全て彼らの予想は「女だから」に裏付けされている。これは被害妄想ではない。結局日本の飲食業界というのは何だかんだで未だにマッチョなのだ。本当は、イギリスやフランスで働くのが夢だった。本当は、こんなはずではなかったのだ。蓜島も本田も長いことパリでシェフをやっていて、向こうで知り合ったのだと聞いた時、激しい嫉妬に震えた。私だってそうなるはずだったのだ。そのために英語もフランス語も勉強していた。こつこつ働いてしばらく海外で暮らせる程度のお金を少しずつ貯めていたのだ。もちろん今更後悔したって仕方のないことだ。私はこうしか生きられなかった。それでも自分の中に未だに消化できないものがあるのは事実だ。子供が巣立った後にでも、海外には行ける。むしろその方がここまで積んできた経験を活かして有利な売り込みができるかもしれないし、フランスでは若くない女性でも恋愛をしているというから、子供を育て上げた後に離婚して独り身で向こうに渡るのもいいかもしれない。私の未来はこの狭苦しい世界に押し込められていない、もっと広いところに開かれている。そう自分に言い聞かせることは精神バランスを保つために必要なルーチンになりつつある。

「どこ行くんすか?」

 柳原がバカみたいな口調で言った。こいつはヤンキー上がりのバカのくせに親がイタリアンレストランをやっていて、クソほど学費が高いことで有名な調理師学校を出ていて、幾つかの店で経験を積んだ後何の悩みも葛藤もなく親の店を継ぐというレールが敷かれている料理人勝ち組で、元ヤンのくせに勝ち組ならではの余裕と空気を読まない技術を持っているどこをどう切っても腹の立つ男だ。

「近所の公園にピクニック。彼女がサンドイッチ作ってくれるんだ。あ、飲み物ビールとワインどっちがいいかな?」

「ワインだとコップ持ってかなきゃだし、ビールの方がいいんじゃないすかね」

 そうだよね、と蓜島が頷く様子が見なくても分かる。中休みにカップルでピクニックって、どんだけスローライフだよ。心の中で毒づく。この店で働く男たちは皆平和ボケしている。本田は結婚十数年の奥さんと二人の娘たちと仲が良く、毎日たった今蒸しあげられたサツマイモのような顔で出勤するし、柳原は学生時代からの彼女にプロポーズを考えているようでこの間は婚約指輪ってどこのがいいんすかねとよりによってデキ婚でどさくさに紛れて結婚指輪すらもらっていない私に聞いてきたし、唯一独り身だった蓜島もここのところあの彼女と仲良くやっているようだ。

 いつからそうなったのかはわからない。三年前、この店のオープン初日にも彼女はやってきて、フランスにいた頃からの友人なんだと蓜島は紹介した。そういう仲だとは疑ってもいなかったが、この間見かけた彼らはどう見ても恋人同士だった。手をつないで寄り添って、コンビニの袋を提げて、蓜島の家に帰る途中のようだった。

 あの子既婚者ですよね? 指輪してますよね? 何度目かに彼女が店に来た時に聞くと、蓜島はそうだよと当たり前のように答えた。だからこそ、フロアで絶妙なアイコンタクトやボディタッチを交わす彼らを厨房から発見しても、彼らはただの仲の良い友人なんだと思っていた。だからか分からないが、先週彼らが寄り添って歩く姿を見て以来、「裏切られた」という思いが黒い炎となって肺のあたりを焼いて燻っているような気分のままだ。私は別に裏切られてなどいない。店のオーナーシェフが不倫をしていようが、それは私に対する裏切りではないし、もしかしたら彼女は離婚して今はフリーなのかもしれない。勝手にすればいいのだ。分かっている。私は自分の夫に対して持つべき怒りを蓜島に向けている。都合の悪い事実から目を逸らそうと、ボウルをがしゃんと音を立てて洗い場に放り込んだ。後ろで三人の男が緊張しているのが分かる。張り詰めた空気が息苦しくて、はあっ、とこれ見よがしにため息をついた。

<続きは本編でお楽しみください>

元のページへ戻る

アタラクシア

アタラクシア金原ひとみ
定価:1,600円(本体)+税
発売日:2019年5月24日発売
四六判略フランス装
ISBN:978-4-08-771184-4
このページのtopへ戻る
Copyright© SHUEISHA Inc. All rights reserved.